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平成19(2007)年3月18日臨時増刊(第253号)

忠臣蔵新聞

赤穂城と忠臣蔵(3)

赤穂春咲ウオーク
赤穂の塩と吉良の塩
大野九郎兵衛の活躍

青空講演する私
「赤穂春咲ウオーク」のコース
(画像をクリック→詳細画像)
県立赤穂海浜公園
(地図をクリック→詳細地図)
2007年3月18日(赤穂発-臨時増刊)
「赤穂春咲ウオーク」の出演者紹介
 2007年3月18日(日)、忠臣蔵のふるさと赤穂で、「赤穂春咲ウオーク」(ラジオ関西・赤穂市・赤穂観光協会)が行われました(参加700人)。その後、海浜公園でのイベントとして、田中さなえさん・池田奈月さんの軽妙なトーク、播州赤穂義士太鼓、私の「赤穂と忠臣蔵」講演、そして、旭堂南海さんの赤穂歴史講談がありました。
(3)赤穂の塩と吉良の塩
 皆さんは、赤穂城の南の水手門を出て、千種川を渡り、この海浜公園にやって参りました。
 この海浜公園は、70ヘクタールありますが、実は東浜塩田の1部なのです。東浜塩田の持ち主は、田淵家でした。田淵家の家宝は赤穂市に寄贈されて、赤穂市立田淵記念館で展示されています。
 田淵邸を紹介します←ここをクリックして下さい。
 塩といえば、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ背景として、塩田スパイ説なるものが紹介されています。元経済企画庁長官で作家の堺屋太一さんらが主張しています。
 当時、江戸では、赤穂の塩が良品で、評判が高かったそうです。
 そこで、吉良上野介は、吉良領の塩田を発達させようと、赤穂にスパイを潜入させました。吉良のスパイは、塩田労働者として働き、情報を収集していました。しかし、それを勘ぐられて、取調べを受け、他国者ということが分かり、土牢に入れられて、死んでしまいました。
 スパイの1人は、無事逃げかえって、吉良上野介に真相を告げました。これが原因で、吉良は、赤穂藩に恨みをもつようになったというのです。
 しかし、吉良の塩は、バケツ用の物で海水を汲み上げ、浜辺に海水をぶちまける製法です。これを揚げ浜塩田といいます。
 赤穂の塩は、干満の差を利用する入浜塩田という製法です。満潮から干潮になる時、海水は海に流れず、砂浜の下に流下する大規模な製法(マニュファクチャ化)です。これを導入したのが大野九郎兵衛です。
 吉良の揚げ浜では、マニュファクチャ化のマネは出来ません。だから、塩田スパイ説は、面白い話ですが、現実的ではありません。
 塩博士の廣山堯道氏からは、「吉良と赤穂の砂は形状が異なっており、それが製法に影響を及ぼしている」とご教示頂きました。
旅館の露天風呂からは広瀬川の源流(右)が見えます
 最近、仙台市泉区にある実相寺に行って来ました。ここは寺坂吉右衛門の墓があると言われていると
ころです。
 助手である妻の希望を入れて山寺(立石寺)も旅程に入れました。その近くの温泉(作並温泉)とも契約しました。この旅館の露天風呂からは、広瀬川の源流が直下に眺めることができました(上の写真)。
 さとう宗幸の『青葉城恋歌』の一節「広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず 早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳」という広瀬川です。
 その夜の料理の調味料として、「仙台塩」が出てきました。仙台藩が赤穂藩から技術を導入した塩が今も使用されていることに感激しました。
 1680(延宝8)年、仙台藩の佐藤三右衛門は、製鉄技術調査で中国地方を訪ねていましたが、その帰路、赤穂に立ち寄り、人手も燃料も効率のよい塩作りの様子を目にしました。仙台藩では古来から製塩が行われていましたが、海水をそのまま釜で煮る原始的な方法で、莫大な薪を消費していたからです。
 三右衛門らは、再び、1683(天和3)年、藩の許可を得て、赤穂にやってきて、入浜塩田を学んだということです。この時の仙台藩の藩主は伊達綱村(在位1660〜1703年)で、赤穂藩の藩主は浅野(在位1675〜1701年)です。
 別にスパイを潜入させなくても、技術は公開されていたのです。
 (赤穂民報などの記事を中心にまとめました)
 大野九郎兵衛の活躍については、私の『忠臣蔵新聞』の「赤穂築城の財源を求めて」をご覧下さい。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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