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平成19(2007)年3月18日臨時増刊(第255号)

忠臣蔵新聞

赤穂城と忠臣蔵(5)

片岡源五右衛門と堀部安兵衛
不仲だった

青空講演する私
(藩邸、片岡源五右衛門高房邸、磯貝十郎左衛門正久邸)
2007年3月18日(赤穂発-臨時増刊)
「赤穂春咲ウオーク」の出演者紹介
 2007年3月18日(日)、忠臣蔵のふるさと赤穂で、「赤穂春咲ウオーク」(ラジオ関西・赤穂市・赤穂観光協会)が行われました(参加700人)。その後、海浜公園でのイベントとして、田中さなえさん・池田奈月さんの軽妙なトーク、播州赤穂義士太鼓、私の「赤穂と忠臣蔵」講演、そして、旭堂南海さんの赤穂歴史講談がありました。

(5)片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門
 皆さんは、大石神社の前の駐車場で、池田奈月さんや旭堂南海さんのラジオ生放送を聞かれたと思います。その駐車場の東南の位置に片岡源五右衛門の屋敷跡があります。
 塩屋門の大野九郎兵衛の東隣に磯貝十郎左衛門の屋敷跡があります。
 2人の屋敷は、主君浅野内匠頭のいる本丸からは一等地の場所にあります。
主君に今生の別れをする源五右衛門 主君のために鼓を封印する十郎左衛門
 磯貝十郎左衛門は、京都のお寺の稚児でしたが、ジャニーズ系の風貌だったので、浅野内匠頭から採用されて、百五十石を与えられました。無高からですから、破格の扱いです。
 片岡源五右衛門も、ジャニーズ系の風貌だったので、浅野内匠頭から寵愛を受け、父の財産を受け継いだ時は百石でしたが、その後、加増されて三百五十石となりました。内匠頭が切腹した時、最後に会ったのが、源五右衛門とされています。「根性は分れ」はジーンとくる名場面ですね。でも、これはフィクションです。
 十郎左衛門は、鼓の名手で、多くの人から激賞されていましたが、主君の内匠頭さんが鼓が嫌いだと聞き、以後鼓を打つことを封印したといいます。最近、「お袋さん」を封印した歌手がいました。2人ともおべんちゃらの名手でもあったのです。

ジャニーズ系でおべんちゃらが出来るの源五右衛門や十郎左衛門
無骨で不器用な安兵衛
両者を取り持ったのが大石内蔵助
剣に強く、弁に達者で、筆まめな安兵衛
 他方、堀部安兵衛は、苦労人です。剣で就職した無骨者で、おべんちゃらも言えません。養父から受け継いだ財産は三百石でしたが、養父の隠居料五十石と安兵衛の石高二百石を合わせても、五十石の減収です。
 やがて刃傷事件がおこり、赤穂城は落城しました。その後の経過を、安兵衛は、次のように語っています。
 「その後、磯貝十郎左衛門らは、亡君の厚恩を受け、浅野内匠頭殿が切腹した時は、落髪までした者たちです。最近になって、私たち3人の所をやってきて、「仲間になって、その本意を遂げ、亡君の憤りを晴らたい」と言ってきたので、人数の内に加えました。そして、「寵愛を受けた者として、主君を追って切腹しなければならない立場だが、仇討ちに加わりたいいうのももっともである」と申し聞かせてやりました。その後、色々と考えたのでしょうか、心変わりして、連絡をしなくなりました。
 最近、源助橋辺りに酒店を出し、町人になっていました。余りのことに、大笑いをしてしまった」
史料
 「扨磯貝十郎左衛門義ハ亡君年頃ノ厚恩ヲ受切腹ノ砌落髪迄仕タル者也、此節迄ハ三人ノ者共方へ罷越各草履ヲ取候而ナリ其本意ヲ遂ケ亡君ノ御憤ヲ散度ノ由度々三人方ヘ通達致候ニ付テ人数ノ内ニモ相加ヘ、其方義ハ追腹ヲモ仕候ハネハ不叶者ナレハ尤ノ所存ト申聞セ候処、其以後何トカ思案致シケン、心替シテ音信不通ニ成、源助橋辺酒店ヲ出シ不通ニ人ニ不出合町人ノ体ニ成ケル、余りノ事大笑致シケル」
 源五右衛門らが町人になって吉良邸を探っても、不器用な安兵衛には、そんな真似は出来ません。そこで、町人になっている2人を見て、安兵衛は大笑いしたのです。
 今のサラリーマンでも、ジャニーズ系で、器用でおべんちゃらが言えるのが出世するのでしょうね。
 不仲のかれらを討入に導いたのも大石内蔵助でした。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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