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平成19(2007)年3月18日臨時増刊(第256号)

忠臣蔵新聞

赤穂城と忠臣蔵(6)

吉良上野介は本当は?
本当に嫌われていた!!
忠臣蔵人気の秘密に迫る

荷田春満
青空講演する私
山田宗匠と羽倉斎(後の荷田春満)から吉良の個人(茶会)情報が漏れる
2007年3月18日(赤穂発-臨時増刊)
「赤穂春咲ウオーク」の出演者紹介
 2007年3月18日(日)、忠臣蔵のふるさと赤穂で、「赤穂春咲ウオーク」(ラジオ関西・赤穂市・赤穂観光協会)が行われました(参加700人)。その後、海浜公園でのイベントとして、田中さなえさん・池田奈月さんの軽妙なトーク、播州赤穂義士太鼓、私の「赤穂と忠臣蔵」講演、そして、旭堂南海さんの赤穂歴史講談がありました。

(6)300年前の赤穂事件が今も人気があるのは?
自分に不都合な史料にもキチンと向き合う姿勢
 赤穂事件を知るには当時の時代背景を知る必要があります。
 最近、歴史修正主義者の井沢元彦氏が『文治政治と忠臣蔵の謎』という本を出版し、その中で、「忠臣蔵はデタラメだれけだ!!」と題して、「史実を赤穂事件といい、虚構の話を忠臣蔵というのに、両方を混同している、これを忠臣蔵錯覚という」とデタラメの主張をしています。
 歴史修正主義とは、自分に都合のいい史料は取り上げ、自分に都合の悪い史料は排除する歴史の方法論で、その方法を駆使する人を歴史修正主義者といいます。戦前の日本を戦争に駆り立てたのも、歴史修正主義者でした。
 こうしたデタラメの学者・評論家・ジャーナリスト・小説家とキチンと対峙するためにも、実証的に、自分にとって不都合な史料でもキチンと向き合うことが大切です

赤穂事件が起きた当時の社会を検証する
大変な恐怖政治の時代だった
(1)1685(貞享2)年、将軍徳川綱吉は、生類憐みの令を出し、人間の命が蚊より軽く扱われました。
(詳しくは忠臣蔵新聞第33号をご覧下さい)
(2)1695(元禄8)年、将軍徳川綱吉は、柳沢吉保の意見を入れ、貨幣の価値を半減した元禄小判を発行し、500万両を入手しました。その反面、猛烈なインフレが襲い、庶民の貯金の価値が半減してしまいました。
(詳しくは忠臣蔵新聞第37号をご覧下さい)
(3)将軍徳川綱吉は、柳沢吉保の意見を入れ、少しの失敗を許さず、大名の改易(取り潰し)をはかり、17大名175万石を没収しました。この恐怖政治に、大名は恐れおののいていました。
(詳しくはエピソード高校日本史121-01号をご覧下さい)

将軍・側用人・高家筆頭による恐怖政治
「悪の3枢軸」の誕生
(4)これは、余り触れられていないことですが、吉良上野介の登場を考えた時、どうしても避けて通れない内容です。
 将軍綱吉は、礼儀による秩序維持のうえから、これまでの天皇・朝廷政策を改めて、朝廷儀式のいくつかを復興させたり、禁裏御料も増やしました。
 幕府の援助で、1687(貞享4)年には220年ぶりに大嘗祭、1694(元禄7)年には192年ぶりに加茂葵祭を再興されました。また、勅使の幕府下向の儀式もより重視されました。ここに高家筆頭の吉良上野介の登場です。大名や旗本は、京都風の儀式・典礼を強要され、武士としての不満を抱いていました。
 高家とは、室町時代の名家で、江戸時代は幕府の儀式・典礼の仕事に従事する一族です。吉良家は将軍足利尊氏と同じ系列に入る名門です。
 以上(1)〜(4)まで見てきたように、元禄時代は、将軍・側用人・高家筆頭による恐怖政治が行われていたのです。これを今風にいうと「悪の3枢軸」と言えるでしょうか。

大名・旗本・庶民は、何かスカッとすることを期待
その1つが浅野家遺臣の吉良邸討ち入り
 そこで、江戸の庶民は何かスカッとすることを期待していました。その一つが大石内蔵助らの吉良邸討ち入りです。
(1)過激派の堀部安兵衛らをなだめるために江戸入りした原惣右衛門や大高源五が、過激派に転じてしまいました。
 冷静な理論派の大高源五は、「私が上方にいて思っていたのとは違い、安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛の3人が言うことはもっともだ」と江戸の雰囲気を書いています。
(2)上野介が本所に屋敷替えを命令されたことを江戸の人々はどのように思っているのでしょうか。多くの人は「内匠頭の家中が存念を達する時節が来た」という噂をしていました。
(2)確かな情報によると、上野介さんの従弟婿である松本城主の水野忠直が親しい友人に「上野助が本所松坂町に屋敷替えを命じられた」と話した所が、お伽をしていた座頭が「それでは幕府が内匠頭の家来に上野助を討てと言っているようなものではありませんか」と言うと、水野忠直は「その通りである」と答えたと言います。
史料
(1)「上方ニテ存候トハ違ヒ三人ノ所存尤ニ候」
(2)「内匠殿衆ノ仕合存念ハ可達時節ト専取沙汰仕候」
(3)座頭「是ハ従御公儀 内匠頭家来ニ討候ヘト」、水野忠直「成程其通ナリ」

吉良上野介は悪役か?
いいえ、吉良われていたのでなく、本当も嫌われていた
家庭教師に生死に関わる個人情報を漏らされたのです
 吉良上野介は悪役とされていますが、本当はどうだったのでしょうか。
 幕府と朝廷の調停役ですから、吉良上野介は、顔は柔和で、芸も達者で、弁も立つ人だっとことは間違いありません。立派だったということと、嫌われていたということとは、別問題です。今でも、実力のある政治家は、嫌われています。
 問題は、その嫌われ方です。
 国学の家庭教師である荷田春満(教科書にもでる有名人)やお茶の先生である山田宗匠が大石内蔵助に個人情報を漏らしています。「14日は、吉良上野介は確かに在宅する」、つまり、14日に討ち入れば上野介の首を取れるという情報です。
 自分の生死に関わる個人情報を家庭教師に漏らされるとはどういうことでしょうか。想像もつきません。  想像もつかないほど、本当に吉良さんは嫌われていたことになります。
(1)12月14日の昼時以前より依頼していた大石三平さんが「吉良上野介さんが今日帰宅された」という情報を羽倉斎さんから聞いて、早速大石内蔵助さんに報告しました」
(2)羽倉さんから聞いてきた情報というのは「吉良家での茶会は14日のようにチラッと聞いています」というものです。
(3)「そこへ大高源吾さんもあのお師匠さん(山田宗■=彳+扁)から聞きだして帰ってこられました」。
史料
(1)「極月十四日之昼時、兼而申合い候大石三平より、上野介殿御事今日帰宅成られ候由聞付、早速告来候」
(2)「尚々彼方の儀は、14日の様にちらと承り候」
(3)「然る所江大高源五も彼師匠方にて聞出し帰えられ候」

大名・旗本・庶民・学者は討ち入りをどう見ていたのでしょうか
幕府が処分する前に、大罪人の赤穂浪士に喝采・賞賛
 赤穂浪士の討ち入りは、徒党による集団殺傷事件で、当然、獄門・磔の大罪です。
 しかし、ほとんどの人が、非難するところか、喝采・賞賛をしているのです。
(1)大石内蔵助らを預かった熊本藩の細川綱利は、幕府の処分が決まらない段階で、徒党を組んで上野介の首をとった大罪人の内蔵助ら17人を「17人の勇士」と激賞しています。
(2)吉良邸の隣人である旗本土屋主税は、上野介からすると同僚です。内蔵助らが討ち入った時、「火事装束のように見えた。しかし、暗かったのでよくわからなかった」として、上野介を見殺しにしています。
(3)教科書にもでる学者の室鳩巣はこの話を聞いて、京都の学者への手紙で、「内蔵助らを育てた赤穂の風土がよくわかる」と地元赤穂とそこの人々を賞賛しています。
(4)たまたま、江戸に来ていて、この事件に遭遇した人は、故郷へ「吉良上野介殿の首を引き下げ泉岳寺に帰ってきたそうだ。江戸中の人は自分の手柄のように思っています」という手紙を書いています。
史料
(1)「十七人の勇士共」
(2)「火事装束体相見申候、尤闇く候故碇と分り不申候、此外ハ何ニ而も不存候」
(3)「君仇吉良上野介殿を討取申侯儀、前代未聞、忠義の気凛々。赤穂士風之厚も是に而相知れ・・・。当地なども此儀のみ沙汰仕侯。其御地(京都)輿論いかが侯哉」
(4)「上野之介殿首ヲ引さけ(提げ)帰候由、江戸中之手柄ニ御座候」

幕府の処分以前に、大罪人の赤穂浪士を支持する意味
人気の秘密は、当時から人気があったので、膨大な一級史料が残った
忠臣蔵の芝居が面白いので赤穂事件の人気が出たのではありません
赤穂事件そのものがドラマチックなので、芝居になるのです
 大石内蔵助は世論(風)を味方にして、権力(将軍・側用人・高家筆頭)と闘ったのです。
 世論は、移ろいやすいものです。幕府の決定に反して、吉良上野介を殺害しました。幕府は、徒党の罪で、獄門・磔に処刑するでしょう。そういう大罪人を支持することは、自分の身を不安なものにします。
 損得勘定でいえば、拍手・喝采は控えた方がいいでしょう。しかし、当時の人々は、大名から庶民まで、大罪人の赤穂浪士の行動を支持したのです。つまり、一貫して、反権力の立場を維持したのです。
 膨大な一級史料が残されているのは、その人気のためです。「これは安兵衛さんの盃や」「これは内蔵助さんから来た手紙や」というわけです。
 その人気にあやかって、忠臣蔵物の芝居が誕生しました。赤穂事件がドラマチックだったので、芝居の世界でも人気があるのです。
 1703(元禄16)年2月4日、大石内蔵助ら赤穂浪士は、お預け大名家で切腹しました。
 2月16日、赤穂事件がモデルの『曙曽我夜討』が、江戸中村座で公演されました。
 2月18日、幕府は、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
 1705(宝永2)年、近松門左衛門は、人形浄瑠璃の竹本座で、シナリオを手がけるようになりました。
 1734(享保19)年、この頃、花道が考案され、観客に密着した新しい演出が出来るようになりました。
 1748(寛延元)年、2世竹田出雲らは、大坂竹本座で、人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』を初演しました。
 1758(宝暦8)年、大坂の歌舞伎作者である並木正三は、初めて回り舞台を考案し、テンポの速い演出が出来るようになりました。
 1766(明和3)年、初世中村仲蔵は、『仮名手本忠臣蔵』で、新しい斧定九郎役を考案しました。
 井沢元彦氏は「忠臣蔵の芝居があって、赤穂事件が攪拌した」と忠臣蔵幻想を指摘していますが、以上見てきたように、それは全く逆です。そう見る井沢氏こそが幻想を振りまき、飯の種にしているのです。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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