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平成19(2007)年3月18日臨時増刊(第254号)

忠臣蔵新聞

赤穂城と忠臣蔵(4)

赤穂春咲ウオーク
忠義桜の大石内蔵助
不忠柳の大野九郎兵衛?

青空講演する私
(大手門、搦手門)、(大石内蔵助、大野九郎兵衛)、(山鹿素行流罪地)
2007年3月18日(赤穂発-臨時増刊)
「赤穂春咲ウオーク」の出演者紹介
 2007年3月18日(日)、忠臣蔵のふるさと赤穂で、「赤穂春咲ウオーク」(ラジオ関西・赤穂市・赤穂観光協会)が行われました(参加700人)。その後、海浜公園でのイベントとして、田中さなえさん・池田奈月さんの軽妙なトーク、播州赤穂義士太鼓、私の「赤穂と忠臣蔵」講演、そして、旭堂南海さんの赤穂歴史講談がありました。
(4)大野九郎兵衛と大石内蔵助の関係
 1659(万治2)年、大石内蔵助は、赤穂で誕生しました。皆さんは、花岳寺→大手門→大石邸長屋門→大石神社に参りました。
 正門の大手門から大石神社の範囲が家老大石内蔵助の屋敷です。
 搦手門(塩屋門)を入った所が家老大野九郎兵衛の屋敷です。
 2人とも非常に重要な位置に配置されていたかがわかります。
大石内蔵助は赤穂で生まれ、43歳まで赤穂で生活しています
山鹿素行とは、この赤穂で、6歳から17歳まで接しています
長政 幸長 長晟 (広島浅野本家) 石束リク
━大石内蔵助良欽━ 大石良昭 ‖━ 主税良金
‖━ 内蔵助良雄
大石頼母助良重 池田クマ
長    晟
長重 長直
長友 内匠頭長矩
大学長広
長賢
長恒
赤穂浅野家3代 内蔵助と大叔父の関係
 1665(寛文5)年、幕府を批判したとして有名な学者である山鹿素行(45歳)が赤穂に流されてきました。皆さんは、大石神社から赤穂城本丸に参りましたが、その途中の東側に山鹿素行の銅像を見ました。しかし、当時は、その西側の大石頼母助宅跡に流されてきたのです。その時、内蔵助は6歳でした。頼母
助は内蔵助の大叔父(祖父の弟)になり、しょっちゅう大叔父の所へ行ったといいます。
 1676(延宝4)年、素行が許されて江戸に帰国した時、内蔵助は17歳の若者になっていました。最も多感な時代を、山鹿素行と共に赤穂で過ごしたのです。これでも「よそ者」といえるでしょうか。
 1701(元禄14)年、刃傷事件により、赤穂城が断絶となりました。江戸時代の史料には確かに、赤穂の人々は「餅をついて喜ぶ」とありました。しかし、内蔵助の事後処理(危機管理)がたくみだったので、地元の人は感激し、以後、赤穂の人は内蔵助の行動を支援したといいます。
 大石内蔵助が赤穂を去ったのは、43歳の時です。立派な大人です。これでも「よそ者」でしょうか。
 詳しくは私の『忠臣蔵新聞第89号』をご覧下さい。←ここをクリック
忠義桜(赤穂花岳寺) 不忠柳(赤穂花岳寺)
 他方、大野九郎兵衛は、大手門の反対側の搦手門(塩屋門)の入り口に屋敷を与えられていました。しかし、切腹か籠城かなどの評定の時に、逐電をしました。現在、花岳寺には忠義桜という桜の木と不忠柳という柳の木が植えられています。柳の木は、大野九郎兵衛の屋敷から移植されたといいます。
 花岳寺は、赤穂浅野家3代の菩提寺です。
 真山一郎の『刃傷松の廊下』という歌があり、次のような名文句があります。。
 「赤穂三代 五十年
 浅野の家も これまでか
 君君たらずとも 臣は臣
 許せよ吾を この無念」
 正式には赤穂3代56年ですが…。
大野九郎兵衛は本当に不忠者でしょうか?
大石内蔵助は差し押さえ荷物を全て返却
 それほど大野九郎兵衛は不忠ものなのでしょうか。
 南部坂雪の別れという名場面があります。しかし、実際は、大石内蔵助は瑶泉院に会わず、瑶泉院の用人に会って、『金銀請払帳』(公金の収支決算書)を渡しています。そこには、「内蔵助は、九郎兵衛の差し押さえていた荷物を返却してやった」と書いてあります。
 本当の不忠者ならこのような扱いはなかったと思います。
 詳しくは私の『忠臣蔵新聞第193号』をご覧下さい。←ここをクリック
 私は、赤穂市や花岳寺のホームページを参考にして、花岳寺の山門を塩屋惣門を移築したと説明しました。参加していた人から、「赤穂市が発行しているパンフには西惣門と書いてあるが、どうちがうのですか」と質問されました。
 そういえば、朝日テレビ『歴史街道』(赤穂編)の花岳寺の説明(ホームページ)には、「寺の山門は明治6年(1873)当時の住職・仙珪和尚が赤穂城の塩屋門を買い取り移築したもので、大石邸の長屋門とこの山門が元禄時代の建物を今日に伝えている」とあります。
 市役所に問い合わせると、塩屋惣門と西惣門は同じ門だという回答でした。
 塩屋門は明らかな間違いです。赤穂城下には、姫路に通ずる東惣門と岡山に通ずる西惣門がありました。西惣門は、塩屋地区にあったため、地元の人は塩屋惣門(塩屋地区になる西惣門)と呼んでいたそうです。
 いずれにしても、表記は一致させた方がいいと思います。つまり塩屋惣門(西惣門)とすべきだと思います。1

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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