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元禄15(1702)年3月15日(第257号)

忠臣蔵新聞

討ち入り後の噂(1)

浪士を詰問して有名人
”江戸中の手柄だ”
”珍しきこと”として詳細記録

『仮名手本忠臣蔵』 当時の人々のうわさ
1702年3月15日(東京発)
寺坂義士論争と「赤穂春咲ウオーク」で中断
今回より、忠臣蔵新聞本論の再開
 寺坂吉右衛門は義士か否かという議論か江戸時代からありました。
 私は、大石神社の名誉宮司飯尾精氏と神戸大学名誉教授八木哲浩氏との史料論争を紹介した『赤穂義士論』(赤穂市発行)を通じて、寺坂吉右衛門は義士であることを論証しました。5回掲載しました。
 次に、ラジオ関西と赤穂市が主催する「赤穂春咲ウオーク」(兵庫県立赤穂海浜公園内)で、「赤穂と赤穂城」と題して、青空講演を行いました。その内容を、ホームページ化して6回掲載しました。
 その間、忠臣蔵新聞の本論である赤穂浪士の引揚げが中断していました。
 今回から、いよいよ再開です。

赤穂事件と忠臣蔵
 刃傷事件から吉良邸討ち入りを経て赤穂浪士の切腹までを赤穂事件といいます。
 これが、『仮名手本忠臣蔵』から名をとって忠臣蔵と呼ばれるために、芝居が評判だったので、赤穂事件が有名になったと思っている人がかなりいます。
 それは本当でしょうか。
 前回、次の年表を紹介しました。
 1703(元禄16)年2月4日、大石内蔵助ら赤穂浪士は、お預け大名家で切腹しました。
 2月16日、赤穂事件がモデルの『曙曽我夜討』が、江戸中村座で公演されました。
 2月18日、しかし、幕府は、3日目で、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
 これをどのように理解すべきでしょうか。幕府のとって、都合のいい芝居は禁止しないでしょう。禁止するということは、幕府のとって不都合な内容だったことが分ります。
 刃傷事件から、47年後の1748(寛延元)年、2世竹田出雲らは、大坂竹本座で、人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』を初演しました。赤穂47士仮名47文字を取り込んだネーミングです。
 松島栄一氏は「忠臣蔵は、史料や講談も含め日本人の思想史である」(岩波新書『忠臣蔵』)と指摘しています。この指摘は、赤穂事件が人気があったから、芝居となり、芝居が評判となって、赤穂事件の関係者の記憶が継承されていったという相乗効果があったということでしょうか。

宮津藩の家来
「赤穂浪士を詰問して有名になった」と自慢し
 それでは、本当に、当時から赤穂事件は人気があったのでしょうか。
(1)忠臣蔵新聞第244号で既に報告していますが、赤穂浪士の一行を詰問した宮津藩の家来である櫻井惣右衛門さんは、そのことで有名になったという自慢話を手紙にしています(元禄16年1月7日付け)。
史料
 「存の外成時節に出合上々様下々迄拙者名を知られ申候…私方よりも各様迄御内証にて御しらせ可申と為念如斯御座候」(宮津藩家中書状)

江戸で事件に遭遇した京都の人の手紙
「江戸中の手柄だ」
(2)京都から江戸に来ていた孫之進さんは、次のような手紙を浅田金兵衛さんに出しています。
 「この(12月)14日夜中の午前4時頃、吉良上野介さんの屋敷は本所にあります。ここへ浅野内匠頭さんの御家来合わせて47人が主人の敵討ちに表門・裏門よりはしごを掛けて入り、首尾よく上野介さんを討ち取り、芝の泉岳寺に引き揚げました。47人は誰も引き揚げる時の姿は、着込み(腹巻・鎖帷子)の上に黒羽二重で、裏には紅の小袖を付け、浅黄の股引をはいていました。鑓を全員が持ち、勝ち鬨をつくり、上野介さんの首を引き提げて泉岳寺に引き揚げました。江戸中の人々は自分たちの”手柄”のようにしております(元禄15年12月16日付け)
史料
 「且又此十四日之夜七ツ時吉良上野介殿屋鋪本庄ニ御坐候、此所江浅野内匠頭殿御家来都合四十七人、主人之敵討ニ表并裏両方よりはしこ掛内へ入、首尾能上野之介殿打仰(ママ)芝江引取申候、何も出立ハ着込之上ニ黒羽(二)重紅裏之小袖、浅黄股引鑓不残持勝時作り彼上野之介殿首ヲ引さけ帰候由、江戸中之手柄ニ御坐候…恐惶謹言
  極月十六日       同 孫之進充清(花押)
   浅田金兵衛様
        人々御中(浅田家文書)」

討ち入りを”珍しきこと”と受け取り
克明に事実関係を記録
(3)同じく、東京大学経済学部に伝わる『浅田家文書』には次のように記録されています。
 一昨夜、吉良上野介さんの竹蔵のお屋敷へ浅野内匠頭さんの御家来が申し合わせて、夜討ちし、上野介さんを討ち取るという”珍しいこと”がありました。ケガ人・死人などの数は分っていません。これにより聞書きの写して送ります。大体は、竹田市右衛門の口上をお聞き下さい。
 聞書きの写し
 一昨夜、八時(ママ)過ぎ、北本所の吉良上野介さんの御屋敷へ浅野内匠頭さんの浪人43人が申し合わせて、表門・裏門より桟(はしご・やぐら・土台などのよこぎ)を掛けて、屋敷内に入り、上野介さんを討ち取りました。首らしい物を三重の衣類に包み、鑓で肩に担ぎ、夜明け方、深川地区を通り、永代橋を渡り、芝の泉岳寺に引き揚げました。
 赤穂浪士は、いずれも火事装束で、鑓や長刀を鞘から抜いて、目印には金紙をつけ、その後に、苗字を記していました。静かに引き揚げました。
 43人のうち、5人(ママ。実は吉田忠左衛門と富森助右衛門の2人)は、大目付の仙石伯耆守さんの御屋敷に参り、今までの経過を詳しく報告し、「この上はどのような処分でも仰せ付け下さい。他の者は芝の泉岳寺におります」と言いました。
 そこで、大目付の仙石伯耆守さんは、江戸城に行って、上司にその内容を報告しました。
 その他、寺社奉行や町奉行からも報告が出され、お役人衆・お目付け衆が残らず江戸城に召しだされました(元禄15年12月16日付け)。
(4)さらに、『浅田家文書』は、赤穂浪士の名前や、お預け先の名前を克明に記録しています。その関心の高さが分ります(元禄15年12月16日付け)。
史料
一 一昨夜吉良上野介様竹蔵之御屋鋪へ浅野内匠頭様御家頼中申合夜討仕上野介様を討取珍敷義共存候、手負死人之儀いまた不慥候、依之聞書写遣申候、荒増竹田市右衛門口上御聞可被成候

    聞書写
一 一昨夜八時過北本所吉良上野介様御屋鋪へ浅野内匠頭様牢人四拾三人相催、表裏門より桟を懸内へ入上野介様討取、首と相見候物三衣類ニ包鑓ニて荷キ、夜明方深川永代橋通芝泉岳寺江立退申候、何も火消装束ニて鑓・長刀を抜躬ニ而相印にハ金紙を以後ニ各名字記之、事静罷通候由、夫より右之内五人(ママ)仙石伯耆守様御屋鋪へ参、右之次第一々申上、此上何分ニも可被仰付候、何も芝泉岳寺ニ罷在候由、依之伯耆守様より御城へ御注進被成候由、其外寺社御奉行・町御奉行よりも御注進被仰上候由夫ニ付御役人様・御徒目付衆不残被召呼御城へ出被申候由
一 上野介様御家来討死
加藤久内
小林平八郎
名字不知 和太利

          
一 内匠頭様浪人四拾八人申合之内三人欠ル
家老 大石内蔵助
家老 奥野将監
村松喜兵衛
同 三大夫
堀部弥兵衛
父子名字不申候 安兵衛
小野寺十内
賀源五右衛門

一 右浪人御預ケ
細川越中守様へ 拾七人
松平隠岐守様へ 拾人
毛利甲斐守(様)へ 拾人
水野監物様へ (九)人

一 右被仰付候御役人
仙石伯耆守様
立合 安部式部様

   右御用被成御懸候御方様
水野小左衛門様
鈴木源五右衛門様
御徒目付 江口文右衛門殿
御徒目付 原田与一左衛門殿
御徒目付 宮田孫三郎殿
御徒目付 松永小八郎殿
御徒目付 梶山与三兵衛殿
御徒目付 石川弥一右衛門殿
御徒目付 境野庄右衛門殿

一 吉良左兵衛様二ケ所手負之由又ハ御死去共申候
   十二月十六日」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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