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元禄15(1702)年3月15日(第258号)

忠臣蔵新聞

討ち入り後の噂(2)

吉田忠左衛門さん”世間の評判は特によい”
小野寺十内さん”例なきほどの忠義とお褒め”

吉田忠左衛門さん 小野寺十内さん
1703年1月27日(東京発)
吉田忠左衛門さんが聞いた噂
「江戸の噂は、思いのほかいいということです」
 熊本藩主の細川家にお預けとなった吉田忠左衛門さんは、返書に次の様に書いています。
 「おっしゃるとおり世間のうわさは、予想していたのとひどく差のあるのか、とてもいいということです。それにしてもまあ、嬉しいことであると喜んでいます」
史料
 「仰せの如く世間沙汰殊の外よく候よし承り、扨々よろこび申候」

小野寺十なさんが聞いた噂
「日本に例がないほどの忠義である」
1703年2月3日(東京発)
 同じく熊本藩主の細川家にお預けとなった小野寺十内さんは、切腹の前日に、妻の丹さん宛てに手紙を書いています。
 「世間の人からは、どれも、昔から日本に例がないほどの忠義であると褒め言葉を頂いています。死に旅立つ思い出としてはこれ以上の物はありません」
史料
「世の聞(世上貴賎イ)へとも(共)にいにしへ(古)も日の本にためし(例)すくなきほと(程)の忠義之事とほうひ(褒美)由ニて候、死出の思ひ出此上有へからず候」

赤穂浪士の行動は徒党で、罪は獄門のはず
しかし、江戸の人々は拍手喝采
これを理解せずして、忠臣蔵は語れない
 赤穂浪士がしたことは、一般的には、時の権力者である将軍徳川綱吉が下した裁定に不満を持ち、集団(徒党)で、吉良邸に討入り、吉良上野介の首を打ち落とした大罪(獄門)です。
 にも関わらず、江戸の人々は、拍手喝采を送っています。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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