元禄15(1702)年3月15日(第259号)
討ち入り後の噂(3)
尾張藩にまで噂が拡大
「吉良上野介首ヲ取リ芝専岳寺江立退」
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尾張藩士の朝日文左衛門重章さんと『鸚鵡篭日記』 |
元禄15(1702)年12月15日(東京発) |
尾張藩士の朝日文左衛門さんの日記 「吉良上野介さんの首を取り、泉岳寺に立ち退いた」 |
尾張藩士の朝日文左衛門さんは、『元禄御畳奉行の日記』で有名です。 彼の日記を見ると、12月15日の項には「夜、江戸にて、浅野内匠頭の家来47人が亡主浅野内匠頭の怨みを晴らすと称して、吉良上野介の首を取って、芝の泉岳寺に立ち退いた」と記されています。 それについても感想はありません。しかし、江戸の事件が、尾張(名古屋)にまで拡大していたことが分ります。 |
史料 |
(元禄一五年一二月一五日) 「夜江戸ニ而浅野内匠家来四十七人亡主ノ怨ヲ報スルト称シ吉良上野介首ヲ取リ芝専岳寺江立退」 |
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尾張の朝日文左衛門さんの日記 刃傷事件を詳しく記録 |
さらに、調査を進めると、朝日文左衛門さんは、元禄14(1701)年3月14日の日記にも、赤穂事件のことを記録していました。 江戸で喧嘩がありました。 毎年春、勅使と院使が江戸に来ます。高家衆の吉良上野介と大名2人がご馳走役を務めます。今度も上野介と浅野内匠頭と他に何の某というものが務めました。 某は賄賂を吉良に贈って首尾(物事が都合よく運ぶこと)を頼みました。内匠頭にも贈物を進める家老もいましたが、内匠頭は、賄賂を贈るような追従はしたくないと少しもしませんでした。 吉良上野介は、欲が深い人物なので、前々から諸大名は賄賂を贈って頼んでくるのに、今度の内匠頭がすることは不快だとして何事についても言ったり知らせたりしませんでした。そこで、事ごとく、内匠頭は物事がくいちがって思い通りにゆかないことが多くありました。 今日、殿中において、御老中を前にして吉良が「今度内匠万事不自由で(不明)言いようもない。公家衆も不快に思っている」と言ったので、内匠頭はいよいよこれを聞いて座を立ち、次の廊下で刀を抜いて声をかけ、吉良の烏帽子の上から頭を切りました。 吉良は驚いて急いでくぐり戸のようなる所をくぐりましたが、内匠頭は吉良の後より腰の辺を切りつけましたが、共に浅傷で、吉良には無事でした。 猶、追いかけようとしましたが、内匠頭の腰を梶川与三兵衛(与惣兵衛のこと)が組み止めて動かしませんでした。 (翌15日、与惣兵衛は500石を加増され、1200石となりました) |
史料 |
(元禄一四年三月一四日) 「於江戸喧嘩有、毎年春勅使・院使江戸江有之、高家衆吉良上野介と其外大名両人宛御馳走ニ懸ル事也、今度も上野介と浅野内匠と外ニ何ノ某と云者懸ル、某は賂ヲ吉良江遣して首尾を頼む、内匠ニも音信可遣由家老すゝむといへとも賄ヲ以テ諛事なしとて少も不遣、吉良ハ欲深キ者故前々皆音信ニ而頼ムニ今度内匠か仕方不快とて何事ニ付而も言合セ知ラセナク、事々に於テ内匠齟齬スル事多シ、…今日於殿中御老中前ニ而吉良云様、今度内匠万事不自由ふもとをり(ママ)不可言、公家衆モ不快と被思と云、内匠弥含之座ヲ立其次ノ廊下ニ而内匠刀ヲ抜テ詞ヲ懸テ吉良か鳥帽子をかけて頭ヲ切ル、吉良駭テ急キクヾリノ様成所ヲクヾルヲ後より腰ヲ切といへとも共ニ薄手ニ而つゝかなし、猶追かけんとセし処を御腰物番梶川与三兵衛後より内匠を組留テ働カセズ、翌日与三兵衛五百石御加増為千五百石」 |
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尾張の朝日文左衛門さんの日記 不公平な裁きを記録 |
続いて、朝日文左衛門の日記です。 浅野内匠頭は、田村右京太夫にお預けとなり、その夜、切腹と命じられました。将軍綱吉は、勅答の儀式がまだ終わっていないのに、殿中での内匠頭の狼藉の仕方がはなはだけしからんと思われたようだ。 吉良に何の処分もなかったのは喧嘩とはみなさなかったからか、吉良も傷を養生し、以前と変わらず仕事に励めと言われたということである。 内匠頭の従兄弟の戸田o女頭(o女正氏定のこと)や内匠頭の弟浅野大学の2人に内匠頭が処分されても騒動しないように国元の赤穂の家臣らに申し付けなさいと言われました。 今日、勅答の儀式も終わらず、特に殿中の喧嘩はいい悪いを論ぜず、先に刀を打った者が悪いのである。上野介は4200石で従四位下少将で、父は若狭守である。 内匠頭は長矩といい、5万石余で、居城は播州赤穂で江戸より155里ある。妻は松平紀伊守(?)の娘である。 |
史料 |
「内匠ハ則田村右京太夫ニ御預ケ其夜切腹被 仰付テ云ク、 勅答未レ終ノ間ニ殿中ニ而狼籍(藉)ノ仕方甚不届ト思召と云云、吉良ニ何の御かまひなく喧嘩の沙汰ニ不被仰出間、吉良も疵養生シ前のことく可相勤と云々、内匠従兄弟戸田采女頭・内匠弟浅野大学右両人ニ内匠召仕等不騒動様ニ国元共ニ可致由被 仰付也、今日 勅答も未終殊ニ殿中ノ喧嘩は是非ヲ不論先太刀打者非分ニなる事也、上野介は四千弐百石、従四位下少将也、父ハ若狭守、内匠は長矩ト云五万石余、居城は幡(播)州赤穂江戸より百五十五里有之、内室ハ松平紀伊守(ママ)女」 |
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尾張の朝日文左衛門さんの日記 赤穂城請取を記録 |
朝日文左衛門は、赤穂事件に関心があるのか、4月のことも記録しています。 赤穂の浅野家家臣は、領内に他国・他良の者を一人も入れずと結束しています。 城請取には龍野藩主の脇坂淡路守(安照のこと)と足守藩主の木下肥後守(公定のこと)が赤穂に向かいました。 赤穂の浅野家家臣が思うところを述べようとしましたが、内匠頭の一族は行く末をよく考え、「内匠頭が喧嘩していたならば、相手も吉良も無事ではないが、ただ殿中で狼藉した結果切腹したなれば、誰に対しても怨みを述べることもできない」と説得する。 内匠頭の一族がこのように言い、「それに逆らってははなはだ理屈に合わない」と言い聞かせたので、4月19日、脇坂と木下の2人は無事に首尾よく赤穂城を受け取りました。 |
史料 |
(元禄一四年四月 日) 「赤穂之家中一党シ、領内江他国他領者ヲ一人モ不入、城請取ニは脇坂淡路守・木下肥後守趣ク、赤穂之家中所存を欲ストイヘトモ、内匠一家之左門等能示し内匠喧嘩之埓ナラハ尤相手ヲモ無事ニ置まじけれ共、只殿中狼籍(藉)之趣ニ而切腹ナレハ誰ニ対シ恨ヲ述ン、又内匠一家之者カク言カラハ是ニ違背セハ甚理ナシナド、言聞セ、今月十九日ニ両人無事ニ首尾能城請取」 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『元禄御畳奉行の日記』(中央公論社)