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元禄15(1702)年3月15日(第260号)

忠臣蔵新聞

討ち入り後の噂(4)

江戸の室鳩巣から京の稲生若水へ
「江戸ではこの話ばかり」
「京都ではいかがか?」

室鳩巣さん 稲生若水さん
元禄16(1703)年1月20日(東京発)
室鳩巣さんの激賞
「前代未聞、忠義の気凛々だ」
「彼らの武士道を育てた赤穂の風土もよく分る」
「浅野内匠頭さんの人材育成の成果だ」
 室鳩巣さん(46歳)は、京都の稲生若水さん(43歳)に次のような手紙を送っています。その激賞ぶりにさぞ当人たちに戸惑っているのではないでしょうか。
 前半部分の内容です
 江戸では、去年の12月(旧臘)14日に、赤穂浅野家の旧家臣らが、主君の仇である吉良上野介殿を討ち取りました。今まで聞いたことがないほどの忠義の気が凛々(りんりん)と満ち溢れ、名教(儒学)の助けになると思います。
 赤穂の武士道を育てる風土の厚いことがこれでよく分ります。これもひとえに、浅野内匠頭殿が人材を養育してきた功績の表れだと思います。
 当地(江戸)でも、この討ち入りの話ばかりで持ちきりです。
 御地(京都)の世間の評判は如何でしょうか。

 後半部分の内容です。
 伊藤東涯さん、並河天民さん、藤井象水さんらの豪士は、討入りをどのように評しているか知りたいと思います。
 討ち入った赤穂浪士48人の内、以前から知っている者もいるだろうが、まことに、田横(中国の英雄)に殉じた500人の気概だと思っています。
 伊蒿老人はさぞ大喜びをしていることでしょう。見ているように推察できます

手紙を送った室鳩巣さんとはどんな人?
 手紙を送った室鳩巣さんとはどんな人でしょうか。
 明暦4(1658)年2月26日に生まれていますから、この時は、46歳になります。
 鳩巣さんは、15歳の時に、加賀藩に仕え、藩主前田綱紀さんに『大学章句』を講じてました。それが縁で綱紀さんの命により京都の木下順庵さんに朱子学を学び、木門(ぼくもん)五先生の1人といわれます。
 元禄16(1703)年、『赤穂義人録』を著し、赤穂浪士の行動を賛美しました。
 正徳元(1711年)年、新井白石さんの推挙で、幕府の儒官となり、将軍の侍講や朝鮮信使応接に従事しました。6代将軍徳川家宣さん、7代将軍家継さん、8代将軍吉宗さんの3代に仕えました。
 特に暴れん坊将軍と言われる吉宗さんの時に、鳩巣さんは、幕府中心主義的な朱子学者の立場から、伊藤仁斎・東涯さん親子や荻生徂徠さんらの古学派を批判しました。

手紙を受け取った稲生若水さんとはどんな人?
 手紙を受け取った稲生若水さんとはどんな人でしょうか。
 明暦元(1655)年年7月27日に生まれていますから、この時は、49歳になります。
 元禄6(1693)年、若水さんは、加賀藩主の前田綱紀さんに仕え、上方に出て、本草学を大坂の福山徳潤さんに学び、京都の木下順庵さんに朱子学を学び、同じく京都の伊藤仁斎さんから古義学派の儒学を学びました。綱紀さんに仕え、京都の木門という縁で、若水さんは室鳩巣さんと親しくなったと思われます。
 若水さんは、加賀藩主の前田綱紀さんの命で、『庶物類纂』1000巻中362巻までを編集して亡くなりました。
 弟子の丹羽正伯さんらは、将軍綱吉さんの命で、残り638巻は編集し、ついに1000巻を完成させました。

手紙に出てくる伊藤東涯さんとはどんな人?
古義堂(伊藤仁斎さん・東涯さんが教えた学校) 伊藤東涯さん
 この手紙に名前が出てくる伊藤東涯さんの父仁斎さんとはどんな人でしょうか。
 父の伊藤仁斎さんは、寛永4(1627)年7月20日に生まれていますから、この時は、77歳になります。
 仁斎さんは、当時支配的だった朱子学を批判し、孔子・孟子の原典(論語・孟子・中庸)に帰ることを主張して、京都堀川に古義堂を開きました。
 学問の特徴は、朱子学の理気二元論に対しては、気一元論を唱えています。また、朱子学が取り入れた禅宗や老荘思想などを非儒教的として、実証主義的で道徳の基準に人情を据えるなどの古学を主張しました。
 伊藤仁斎さんの子東涯さんはどんな人でしょうか。
 寛文10(1670)年4月28日に生まれていますから、この時は、34歳になります。
 父仁斎さんの古学派を継承し、発展させました。

手紙に出てくる並河天民さんや藤井象水さんとはどんな人?
 この手紙に出てくる並河天民さんとはどんな人でしょうか。
 延宝7(1679)年5月28日に生まれていますから、この時は、25歳になります。
 京都の伊藤仁斎さんに古学派を学び、同じく京都の名古屋玄医さんに古医方を学びました。
 その後、仁斎さんの古学派から離れ、儒医として、経世済民を重んじ、堀木之舎を創設しました。
 この手紙に出てくる藤井象水さんとはどんな人でしょうか。
 よく分りませんが、藤井懶斉さんの長子で、文武に秀でた人だったようです。

手紙に出てくる田横さんとはどんな人?
 この手紙に出てくる田横さんとはどんな人でしょうか。
 紀元前200年頃の中国の斉という国がありました。田栄は、田子を立てて斉王とし、田横はその将軍となり、斉の地を平定しました。
 やがて、田横は、田栄の子田広を立てて斉王とし、みずから宰相となりました。
 やがて、漢の高祖は、田広を殺し、斉の城を焼き払いました。
 そこで田横は、500人の部下を連れて、海島の中に逃れました。高祖は、田横とその部下500人が賢人であることを恐れ、「田横を王に、部下を候にする」という条件で講和を申し入れました。
 田横は、その条件を受け入れて、洛陽近くの駅ににやってきましたが、「以前は、私も漢王も同じだったのに、今は漢王は天子になった。私は、亡虜の辱として仕えるようになった。この恥辱には耐えられない」と自分の首を刎ねて、漢王の高祖に届けさせました。高祖は、涙を流し、王者の礼で田横を葬りました。
 高祖は、海島の500人を賢人として召しましたが、田横に殉じて死を選んだということです。

江戸の事件が京都にも攪拌している事実
 討入り後、35日目にして、事件が京都にもたらされていることが分ります。
 このようにして、討入り事件は全国に攪拌していきました。
 討入り事件より47年目にして『仮名手本忠臣蔵』が演じられました。この演目が大人気を得た背景には赤穂事件をほとんどの人が知っていたことが挙げられます。
 芝居の人気で、赤穂事件は更に攪拌し、赤穂事件の攪拌によって、忠臣蔵の人気が高揚して言ったのです。
史料
 「江戸旧臘十四日、浅野氏旧臣共、君仇吉良上野介殿を討取申候儀、前代未聞、忠義の気凛々、名教之助益と存じ奉り候。赤穂士風之厚も是に而相知れ、偏に内匠頭殿人材を養育し功も著れ申候。当地なども此儀のみ沙汰仕候。其御地輿論いかが候哉。
 長(東涯伊藤長胤)民(天民並河亮)象水(藤井象水)等の豪士、如何評し申され候哉と存じ奉り候。四十八人の中、兼て御存知の者もこれ有り候哉誠に以て田横五百人之英気と存じ奉り候。
 伊蒿老人さぞ大慶の体、推察見申様に存じ奉り候。
  (中略)
   元禄十六年正月二十日
            室 新介
  稲生若水様
        御右」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『図録日本史の人物2000』(新人物往来社)

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