home back back

元禄15(1702)年12月15日(第292号)

忠臣蔵新聞

重要な討ち入り時間と
引き上げ時間はどうなっている?(1)

討ち入り時間は午前4時が多数説
引き上げ時間は午前6時が多数説
本紙記者は午前5時引き上げ説

12月15日に朽木某の家臣榊原某が芝神明辺にて写生
左(奥田孫太夫)、中央(奥田貞右衛門?)、右(近松勘六)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
吉良邸に討ち入ったのは、午前4時です
 討ち入り時間は、午前4時が多数説です。私も賛成です。
(1)史料(1):小野寺十内さんが妻「たん」さんに宛てた書状には、「午前4時に皆で吉良上野介宅へ討ち入る」とあります。
(2)史料(2):「12月14日の夜、総人数46(ママ)人が本所に集まり、堀部安兵衛と杉野十平次の借宅にて支度しました。そして午前4時、吉良上野介殿の屋敷に行き、屋敷の脇で人数を表門と裏門の二手に分け、表門よりはハシゴを掛けて屋根を乗り越え乱入しました。裏門はかけやを使って打ち破り押し入りました」とあります。
史料(1)
 「七ツ過に打立て敵の方へ押寄候」
史料(2)
 「十二月十四日之夜、惣人数四十六人本所へ集り、堀部安兵衛杉野十平次借宅にて支度いたし、寅の上刻吉良上野介殿屋敷え罷越候、屋敷脇にて人数二手に分、表門よりは階子を掛屋根を乗越入候、裏門はかけやを以打破り押入候」(『江赤見聞記』)

吉良邸から引き揚げたのは午前5時です
東大史料編纂所教授・山本博文氏の説
私もこの少数説に賛同
回向院(『江戸名所図会』より)
(3)史料(3):47士は吉良邸を引き上げました。このときの様子を冨森助右衛門さんは次のように書いています。寅の下刻の時間については、山本博文氏の解釈に従いました。
 引き上げた時刻は、まだ透きとは明けてはいませんでした。かねてからずっと思っていたことの本意を遂げたので、吉良上野介さんの首は泉岳寺へ持参し、亡主浅野内匠頭の墓前に手向ける覚悟でした。しかし、ここから泉岳寺までは長いし、ここへ外からやってくる者のあるだろう。上杉屋敷より吉良上野介さんのために駆けつけて来る者もおれば、逃げ出しては、そこは本意ではない。先ずは近所の無縁寺の回向院に行って、その旨申し入れよう。無縁寺(両国回向院)へ向かった時刻は、寅の下刻(午前5時前ごろ)になっていました。
 しばらく待っても、追って来る者のいないようなので、もういいだとうと、先ず回向院に行きましたが、まだ門は開いていませんでした。理由を申し入れたが、門内にも入れてくれませんでした。しばらくの間、回向院の門前で出発を延ばしていましたが、遮ったり留めたりする者もいないので、泉岳寺に行きました。
史料(3)
 「一、引払い候刻は、未だ透とあけはなれ申さず、兼ねての存念、本意を遂げ候へば、上野介殿しるしは泉岳寺へ持参致し、亡主の墳墓へ手向け申す可き覚悟に存じ候え共、長途の儀と申し、又は場所へ外より懸あはせの者もこれ有り、或は屋敷よりしたい候て追駈け候著も候はば、其の段本意の如く仕り難く候はん欺、先ず近所無縁寺迄罷り越し、彼の地にて申し談じ、その時宜次第に仕る可くと申し合わせ置き候に付き、先ず無縁寺へ参り候(時に寅の下刻に候)、未だ門を開かず候につき、断り再往申し入れ候え共、門内え入れられ候儀なり難き旨、門番人を以て申し出でられ候につき、暫らく彼の門前に猶予仕り候え共、さへぎり留め候者も御座無くにつき、泉岳寺へ罷り越し候」(『江赤見聞記』)

赤穂浪士が泉岳寺に到着した時刻
山本博文氏は午前8時説
泉岳寺前のうわさ(挿絵:寺田幸さん)
(4)史料(4):12月15日午前8時過ぎ、46人(吉田忠左衛門・富森助右衛門は仙石邸自訴、寺坂吉右衛門は逐電しているので、本当は44人)は泉岳寺に着きました。浪士たちは討ち入り衣装のままで、刃の欠けた鎗や血がついた長刀、上野介殿首を墓前に持って来ました。
史料(4)
 「十二月十五日之朝五ツ過ぎ四十六人の面々(ママ)芝泉岳寺へ、各々小手さし候ままにて、打損じたる鎗長刀血付きたるままにて、上野介殿首を守護し持参仕る」(江赤見聞記)

吉良邸から泉岳寺まで12キロメートル
現在の登山用の時間に換算して約3時間
赤穂浪士も3時間、費やしています
 吉良邸から泉岳寺までは12キロメートルです。登山の場合、1キロメートルを15分で歩くと計算します。12キロメートルの場合、12×15=180分(60分×3)=3時間となります。
 本紙記者も、全行程を踏破しました。ただ、妻が同行したいというので、非番の日に、2回に分けましたが、あちこち写真を写して、3時間かかりました。
 赤穂浪士は、激しい戦いのあと、疲れて、ゆっくり歩いて、3時間かかっています。

吉良邸から桜田門外の上杉邸まで足で30分
上杉邸への第一報が午前4時40分
上杉家臣の吉良家到着は午前6時には可能
赤穂浪士の引き上げ時間は午前5時から午前6時か
 吉良邸から桜田門外の上杉邸まで駆け足の場合、30分と言われています。
 吉良邸近くの豆腐屋が桜田門外の上杉邸に事件を報せたのが討ち入りから40分後です。つまり、午前4時40分となります。
 吉良家の使用人が桜田門外の上杉邸に事件を報せたのが討ち入りから60分後です。つまり、午前5時となります。
 上杉綱憲は、その時、すぐ出陣して、駆け足で吉良邸に駆け付けると、午前5時には間に合う計算になります。出陣に手間取ると、午前5時には、間に合いません。しかし、赤穂浪士の引き上げが、多数説の午前6時なら間に合います。
 そういう意味で、引き上げ時間がどうしても正確に算出する必要があるのです。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『江赤見聞記』(赤穂義人纂書)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

index home back back