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元禄15(1702)年12月15日(第293号)

忠臣蔵新聞

重要な討ち入り時間と
引き上げ時間はどうなっている?(2)

引き上げ時間は午前6時が多数説
本紙記者は午前5時引き上げ説
泉岳寺到着は午前8時が多数説
吉良邸〜泉岳寺 費やした時間は?

松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」とよんだ上野の時の鐘
写真提供(有賀泰三氏

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
八ツ半を3時、3時30分と解釈
寅の上刻を3時40分頃、4時と解釈
江戸の時刻を現代風に理解する過程で混乱?
 14日の午前0時前の出来事です。
(1)五ツ半(20時)、大石内蔵助らが小山屋を出立しています。
(2)九ツ前(0時前)、吉田忠左衛門らが堀部弥兵衛宅を出立しています。
 14日の午前0時〜午前1時までの出来事です。
(3)九ツ(0時)、大石内蔵助らが堀部弥兵衛宅を出立しています。
(4)子の刻(0時)、大石内蔵助らが堀部安兵衛宅へ集合します。
(5)この頃、吉田忠左衛門らが亀田屋へ集合します。
(6)九ツ半(1時)、大石内蔵助らが堀部安兵衛宅へ集合します。(4)と内容は同じですが、1時間の差が生じています。
(7)丑の上刻(1時)、赤穂浪士が各々三か所に集合します。

 14日の午前1時〜午前2時までの出来事です。
(8)八ツ前(2時前)、吉田忠左衛門らが堀部安兵衛宅へ集合します史料(19)
(9)八ツ過(2時過)、集合時刻になり、赤穂浪士が堀部安兵衛宅・杉野十平次宅・前原伊助宅に集合しました。

 14日の午前3時〜午前4時までの出来事です。
(10)八ツ半(3時)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します。
(11)八ツ半(3時)、なんとこの時間に吉良邸を襲撃しているという史料があります史料(1)
(12)八ツ半過(3時過)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(13)
(13)八ツ半(3時30分)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(14)
(13)寅の一天(3時30分頃)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する。
(14)寅の上刻(3時40分頃)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します史料(2)
(15)七ツ前(4時前)、赤穂浪士が前原伊助宅ら三か所より出立します史料(2)
(16)寅の刻(4時)、赤穂浪士が討入服装に着替える。
(17)寅の上刻(4時)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する。
(18)七ツ頃(4時頃)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(6)史料(7)
(19)八ツ過(4時過)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(15)
検証:
(1)八ツ半を3時と解釈したり、3時30分と解釈しています。寅の上刻も3時40分頃としたり、4時としたりしています。江戸時代の時刻の表現を現代風に理解する過程で混乱が起きています。
(2)その結果、吉良邸襲撃時間を見ても、午前3時・3時30分・4時とバラバラです。
(3)吉良邸襲撃の最中に、討入服装に変えたり、討入りに向かって出発したりです。

引き上げ時間は
上杉家の動向を考える上で重要
 14日の午前4時〜午前5時までの出来事です。
(20)七ツ前(4時前)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(16)
(21)七ツ前(4時前)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します史料(4)
(22)七ツ(4時)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(17)
(23)七ツ(4時)、吉良邸の隣の豆腐屋が異変を感じて上杉家に向かう。
(24)七ツ過(4時過)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(8)
(25)七ツ過(4時過)、赤穂浪士が吉良邸に向けて出立します史料(3)
(26)寅の上刻(4時過)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します。
(27)4時40分、吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告します。
(28)七ツ半(5時)、吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告します史料(1)
(29)七ツ半(5時)、吉良家の丸山清左衛門が討入りの第二報を上杉家に報告します。
(30)寅の下刻(5時前)、赤穂浪士が吉良邸を引き上げ、回向院に向かう史料(2)
検証:
(1)吉良邸襲撃の時間で、一番遅いのが4時過ぎです。最も早い午前3時とは1時間の差があります。
(2)赤穂浪士が吉良邸に向かうのが4時過ぎです。最も早い午前3時とは1時間の差があります。
(3)最も早い引き上げ時間は5時です。少数派ですが、上杉家の動向を考える上で重要な時間です。
(4)赤穂浪士が泉岳寺に着いたのが、8時説と9時説があります。引き上げ時間と関連があります。
(5)上杉家が討入りの第一報を得たのが4時40分と午前5時です。気になる時間差ではありません。
(6)上杉家が討入りの第二報を得たのが午前5時です。上杉家の動向を考える上で重要な時間帯です。

上杉家、討ち入り情報を5時に入手
上杉家、1時間後の6時に先発隊40人を派遣
その謎は?
 15日の午前6時〜午前7時までの出来事です。
(31)六ツ前(6時前)、吉良家の丸山清左衛門が討入りの第二報を上杉家に報告する史料(11)
(32)六ツ前(6時前)、赤穂浪士が吉良上野介を討つ。
(33)六ツ前(6時前)、赤穂浪士が回向院で開門を呼びかける。
(34)六ツ(6時)、赤穂浪士が引き上げを開始する。
(35)六ツ頃(6時頃)、上杉家の野本忠左衛門が赤穂浪士の討入りを知る史料(1)
(36)寅の下刻(6時頃)、赤穂浪士が吉良邸の裏門から出る。
(37)六ツ過(6時過)、赤穂浪士が宮津奥平家前を通過する史料(5)
(38)六ツ過(6時過)、赤穂浪士が引き上げを開始する。
(39)この頃、上杉家の物見2人が吉良邸に派遣される。
(40)この頃、さらに上杉家の先発隊40人が吉良邸に派遣される。
検証:
(1)上杉家が討入りの第二報を得たのが午前5時と6時前です。時間差は1時間です。
(2)引き上げ時間が5時前から6時過ぎまでで、時間差は1時間です。
(3)6時頃、上杉家が吉良邸に40近くを派遣しています。
(4)5時に引き上げでも、6時に引き上げでも、上杉家の派遣隊とは接触することはありません。
(5)上杉家が討ち入り情報を5時に得ていながら、1時間後の6時に先発隊40人を派遣しています。なぜ1時間後なのかが、重大な問題です

戦闘2時間の浪士が早足で2時間で泉岳寺は可能か?
負傷している浪士をどう扱うのか?
 15日の午前7時〜午前8時までの出来事です。
(41)六ツ半(7時)、先発隊40人が引き返してきた物見2人と出会い、赤穂浪士の引き上げを知る。
(42)六ツ半(7時)、上杉家の野本忠左衛門が吉良邸に着く史料(1)
(43)六ツ半(7時)、幕府が鎮撫使として高家を上杉家に派遣する。
(44)この頃、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(45)辰の上刻(7時半頃)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(46)五ツ(8時)、仙石伯耆守が「吉良邸討ち入り事件」を報告するために登城する。
(47)五ツ(8時)、上杉家の当主上杉綱憲も登城する。
(48)辰の刻(8時頃)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(49)五ツ過(8時過)、赤穂浪士が泉岳寺に着く史料(2)
(50)この頃、上杉家の捜索隊が四方に散る。
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検証:
(1)7時過ぎに、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴しています。
(2)それ以前に、幕府が上杉家に遣使するという書籍もあります。あり得ない説です。
(3)8時、自訴を受けた大目付の仙石伯耆守が「討ち入り事件」を報告するために登城します。
(4)8時に赤穂浪士が泉岳寺に着いたとする書籍が11冊中6冊ありました。史料もあります。
(5)引き上げは6時とする説が多数はです。多数派説をとると、2時間で泉岳寺に着いたことになります。
(6)吉良邸から泉岳寺までは約12キロです。1キロ=15分で計算する私の足でも、約3時間でした。健脚の人も約3時間です。
(7)6時説は戦闘を2時間としています。鎖帷子を着け、討ち入り道具を持っているが、上杉家の追手を恐れ、戦闘2時間の浪士が早足で2時間で泉岳寺にやってきたという説もあります。
(8)しかし、この説に無理があるのは負傷している浪士がいるのです。
(9)引き上げにが3時間を要したという説が妥当性があります。

大石内蔵助は、厳寒の室外で、不動で、2時間も指揮出来るか?
引き上げ5時、泉岳寺着8時が最も合理的
 15日の午前9時の出来事です。
(51)五ツ半前(9時前)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(52)五ツ半(9時)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(53)五ツ半(9時頃)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(54)五ツ半(9時頃)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(55)五ツ半過(9時過)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
検証:
(1)吉田忠左衛門らが仙石邸へ自訴する時間は、7時から9時で、2時間の差があります。
(2)赤穂浪士が泉岳寺に着いた時間は、8時から9時で、1時間の差です。
(3)上記に述べたように、6時に引き上げ、9時に泉岳寺着は、時間的には合理的です。
(4)9時に赤穂浪士が泉岳寺に着いたとする書籍が11冊中3冊ありました。史料の例示はありません。
(5)しかし、大石内蔵助は、厳寒の室外で、不動で、2時間も指揮出来るかという問題です
(6)東大史料編纂所教授の山本博文氏の引き上げ5時、泉岳寺着8時が最も合理的だと思います。

引き上げが時間が5時、自訴が8時、登城に出立が9時、
寺社奉行の報告が10時過ぎ、協議・帰宅が12時というのが自然
 15日の午前10時〜正午12時までの出来事です。
(56)巳の刻(10時)、赤穂浪士が墓所より泉岳寺本堂・衆寮に移動する。
(57)四ツ過(10時過)、赤穂浪士が泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に、吉良上野介の首級を供える。
(58)四ツ過(10時過)、赤穂浪士が墓所より泉岳寺本堂・衆寮に移動する史料(9)
(59)この頃、泉岳寺の酬山和尚が寺社奉行に報告する史料(9)
(60)九ツ(11時)、墓前での焼香が終わる。
(61)九ツ(11時)、幕府の検視が吉良邸に着く。
(62)この頃、幕府の鎮撫使が上杉邸に着く史料(12)
(63)九ツ半(12時)、大目付の仙石伯耆守が登城より帰宅する史料(2)
(64)午の刻(12時)、伊予の松山藩主の松平定直にお預けの奉書が届く。
検証:
(1)墓前での焼香の時間は、10時と11時で、時間差は1時間です。
(2)焼香が終わって、泉岳寺本堂・衆寮に移動する時間は、10時です。
(3)8時に泉岳寺に着き、2時間かかって焼香などをし、10時に泉岳寺本堂・衆寮に移動する。そういうシナリオですが、浅野内匠頭の墓前で2時間も費やしています。時間がかかっていると言えば言えるし、長年の艱難辛苦相照らすには、必要な時間とも言えます。
(4)赤穂浪士らが泉岳寺本堂に移動した後の10時、泉岳寺の酬山和尚が寺社奉行に報告する
(4)幕府が高家を鎮撫使として上杉家に派遣する時間は、7時から11時で、2時間の差があります。仙石伯耆守が登城して協議した後の鎮撫使派遣は、11時が自然です。
(5)吉田忠左衛門らが仙石邸に自訴する時間は、7時から9時で、2時間の差があります。
(6)8時に、自訴を受けた仙石伯耆守が「討ち入り事件」を報告するために登城し、寺社奉行の報告もあり、老中らと協議して、帰宅するのが12時です。帰宅時間には史料があります。
(7)このことから、引き上げが時間が5時、自訴が8時、登城に出立が9時、寺社奉行の報告が10時過ぎ、協議・帰宅が12時というのが自然ではないでしょうか。

細川家に「赤穂浪士受取命令」が届いたのが22時、
その前に仙石邸での約2時間取り調べ
赤穂浪士が仙石邸に着いたのは20時前
 15日の午後14時〜午後23時までの出来事です。
(65)八ツ(14時)、幕府の検視が吉良邸に着く。
(66)八ツ過(14時過)、幕府の検視が吉良邸に着く史料(11)史料(12)
(67)申の刻(15〜17時)、伊予の松山藩主の松平定直にお預け時刻変更の奉書が届く。
(68)八ツ半過(15時)、幕府の目付が大石内蔵助らに仙石邸移動を申し渡す史料(2)
(69)申の上刻(15時半)、泉岳寺でが赤穂浪士にお粥を振る舞う。
(70)七ツ半(16時)、幕府の目付が大石内蔵助らに仙石邸移動を申し渡す。
(71)申の上刻頃(16時頃)、赤穂浪士が泉岳寺が供応したお粥を食べ終わる史料(9)
(72)六ツ(18時)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう史料(9)
(73)六ツ頃(18時頃)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう。
(74)六ツ半(19時)、赤穂浪士が仙石邸に着く。
(75)五ツ(20時)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう。
(76)五ツ過(20時過)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(18)
(77)戌の上刻(20時頃)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(10)
(78)戌の下刻(21時頃)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(2)
(79)四ツ過(22時過)、幕府から細川家に、「赤穂浪士受取命令」が届く史料(18)
(80)九ツ時分(23時頃)、細川家の受け取り役人が仙石邸に着く。
(81)九ツ(23時)、赤穂浪士を四家に引き渡す。
検証:
(1)仙石伯耆守の登城・協議後の14時、幕府は検視を吉良邸に送る。
(2)仙石伯耆守の登城・協議後の15時、幕府は目付を泉岳寺に送る。
(3)赤穂浪士が泉岳寺を出て仙石邸に向かう時間は、18時から20時で、2時間のさがあります。
(4)赤穂浪士が仙石邸に着いた時間は、19時から21時で、2時間の差があります。
(5)22時過ぎ、幕府から細川家に「赤穂浪士受取命令」が届く。
(6)23時頃、細川家の受け取り役人が仙石邸に着く。
(7)幕府から細川家に「受取命令」が届いたのが22時ですから、その前に約2時間取り調べたとして、赤穂浪士が仙石邸に着いたのは20時前になります。

深夜2時、
赤穂浪士は四家に着く
 15日の午前1時〜16日の午後17時までの出来事です。
(82)牛の刻(1〜3時)、赤穂浪士の17人が細川邸に着く。
(83)八ツ(2時)、赤穂浪士が四家に着く。
(84)八ツ(2時)、幕府の検視が吉良邸に着く。
(85)八ツ過(2時過)、赤穂浪士が四家に着く史料(18)
(86)酉の刻(17時過)、泉岳寺より吉良上野介の首級が吉良邸に届く
検証:
(1)午前2時、赤穂浪士が四家に到着する。
今回は敬称を略しました。

 次回から
史料原文を提示して、報告
 次回から、史料原文を提示して、報告致します。 
参考資料
*1 大河原文書 *6 討入り実況報告書 *11 野本忠左衛門書状 *16 土屋主税調書
*2 江赤見聞記 *7 礒貝富森両人覚書 *12 米沢塩井家覚書 *17 本多孫太郎家来調書
*3 小野寺十内書簡 *8 小野寺書状 *13 吉良家口上書 *18 細川家御預人始末記
*4 寺坂私記 *9 白明話録 *14 吉良家来口上書 *19 寺坂筆記
*5 宮津家文書 *10 原惣右衛門手簡 *15 栗崎道有日記

十二支
夏至
春分
秋分
冬至
現在
江戸時代の日替・時刻の見方

 日が昇る頃を明け六ツといいます。
 日が沈む時を暮れ六ツといいます。
 同じ九ツでも夏は長く、冬は短い。
 明け六ツと暮れ六ツの間を12等分すれば、
当然、夏はその間隔が長く、冬は短くなります。
 暮れ六ツから明け六ツまでの間隔が逆に、
夏はその間隔が短く、冬は長くなります。 

(1)「十四日寅の上刻吉良上野介殿屋敷え罷
越候」
14日午前4時前吉良邸へ押しかけました)
(2)「十四日七ツ過に打立て敵の方へ押寄候」
14日午前5時過ぎに吉良邸に押し寄せました)
(3)「十五日之朝五ツ過ぎ四十六人・泉岳寺へ」
15日朝8時過ぎ46人が泉岳寺へ参りました)
 これより、明け六ツから日が替わり、翌日の
明け六ツまでを1日
としていることが分かります。

(1)24時間を十二支で表現すると、時間の最小単位は2時間
(2)九ツ〜四ツの「数呼び」と半の併用で最小単位は2時間
(3)各十二支を上刻・中刻・下刻に分けると、最小単位は40分間
(4)各十二支を一ツ・二ツ・三ツ・四ツの3つに分けると、最小単位は3分間
(1)24時間を十二支で表現すると、時間の最小単位は2時間となります。非常に大まかなので、最小単位を1時間とする上刻・下刻が採用されます。「寅の上刻」とが午前3時から午前4時までの間となります。
(2)やがて、九ツ〜四ツで時間を表現する「数呼び」が使われるようになります。深夜12時が九ツ、以下2時間ごとに八ツ、七ツ、六ツ、五ツ、四ツとします。正午の12時が再び九ツとします。
 最小単位を1時間とする「半」が採用されます。深夜の12時は九ツ、1時は九ツ半、2時は八ツ、3時は八ツ半、4時は七ツ、5時は七ツ半、6時は六ツ、7時は六ツ半、8時は五ツ、9時は五ツ半、10時は四ツ、11時は四ツ半となります。午後の12時は九ツ、1時は九ツ半、2時は八ツ、3時は八ツ半、4時は七ツ、5時は七ツ半、6時は六ツ、7時は六ツ半、8時は五ツ、9時は五ツ半、10時は四ツ、11時は四ツ半となります。
(3)さらに、十二支と十二支の間の2時間を上刻・中刻・下刻の3つに分ける方法が採用されます。上刻は00分〜40分、中刻は40分〜80分、下刻は80分〜00分となります。
(4)さらに、十二支と十二支の間の2時間を一ツ・二ツ・三ツ・四ツの3つに分ける方法が採用されます。一ツは00分〜30分、二ツは30分〜60分、三ツは00分〜30分、四ツは30分〜60分となります。
 「草木も眠る丑三ツ時」などと言う表現があります。これが午前2時00分〜2時30分の間ということになります。
解説:2時間単位にしても30分単位にしても、標準時間を知らせる制度がなければ、意味がありません。

アバウト(ええかげん)な時の感覚が江戸時代
1分でも遅れると、大事故になるシビア(厳格)な現代
現代の感覚で江戸時代の時の感覚・観念を解釈することは無理
 松尾芭蕉(1644〜1694年)の俳句に「花の雲 鐘は上野か 浅草か」というのがあります。
 赤穂事件の前には、鐘の制度があったことが分かります。
 江戸時代の大道寺友山重祐(1639〜1730)の『落穂集』(1727年)には、「この鐘楼堂(石町)は元々将軍のお部屋に近くにあり、昼夜ともにお耳障りに思われ、今後は鐘でなく太鼓を使用せよ、しかし今まで城中で撞いていた時の鐘は続けるようと仰付けられたので、今の石町の辺でしょうか、町奉行衆の指示で鐘撞堂をつくりました。酉の年(1657年)大火(明暦の大火)の後はご当地の家並みが広大になりましたので、所々で時の鐘を撞くようになったと承っております」とあります。
 つまり、標準時は江戸城にありましたが、1619(元和5)年に日本橋石町に移され、1657(明暦3)年の明暦の大火後、上野など9か所(石町・上野・浅草・本所・市谷八幡・目黒不動・赤坂・四谷・芝)で時の鐘が設置され、幕末には15か所になっていたといいます。
解説:標準時刻に合わせて鐘が鳴るといっても、明け六ツ(午前6時)で鳴ります。次に五ツ(午前8時)に鳴ります。仕事中に聞いた鐘の音は、「六ツの鐘からすぐだった」「五ツの鐘からちょっと前だった」と感じても、「すぐ」「ちょっと」は感じた人、感じた状況で、非常に主観的です。
 「夜が明けたら1日の始まりで、日が暮れたら1日の終わり」というようなアバウト(ええかげん)な時の感覚が江戸時代です。
 現代は、1分でも遅れると、大事故になるシビア(厳格)な時代です。その現代の感覚で江戸時代の時間の感覚・観念を解釈してもドダイ無理な話だということがよく分かりました。

 最後に、時間感覚に大まかなスローライフ時代の話を紹介します。
 有名な落語に「時蕎麦(そば)」というのがあります。
 当時、蕎麦は具入りで16文でした。
 「いくらだい?」
 「ええと、具入りで、16文です」
 「16文だったな? ひー、ふうー、みー、よつ、いつ、むー、なな、やー、何どき(刻)だい?」
 「エー、ここのつ(九ツ)で」
 「とお、11、12、13、14、15、16・・・じゃ、あばよー」
 これを見ていた頭のやや弱い男が、次に日に、同じ手を使いました。
 「いくらだい?」
 「ええと、具が入って、16文です」
 「16文だったな? ひー、ふうー、みー、よつ、いつ、むー、なな、やー、何どき(刻)だい?」
 「へー、よつ(四ツ)で」
 「いつ、むー、なな、やー、ここのつ・・・16」
 「よつ、いつ、むー、なな、やー」と払って、さらに「いつ、むー、なな、やー」の4文を余分に払わされる話です。

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