元禄15(1702)年12月15日(第295号)
上杉家の先遣隊派遣は午前6時
本隊派遣前に、赤穂浪士引き上げ
吉良邸家臣の第一報は午前6時
上杉家の先遣隊2人は午前6時出発
本隊派遣前に赤穂浪士の引き上げを知る
吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告している場面です |
(挿絵:寺田幸さん) |
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元禄15(1702)年12月15日(東京発) |
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上杉家の公式文書『大河原文書』 午前5時には、討ち入りの第一報が上杉家に届けられた |
午前5時、吉良邸の近くの豆腐屋さんが浅野家の家来150人の討ち入りを上杉家に報告しました。 同じころ、吉良左兵衛さんの家臣である足軽の丸山清左衛門さんが上杉家に来て、同様の報告をしました。 『大河原文書』にはそう書かれています。 前回、紹介したように『大河原文書』は、上杉家の家臣大熊弥一右衛門さんが赤穂浪士討ち入りの後、吉良邸に行って見聞した内容を12月18日付けで、上杉本家・米沢の大河原忠左衛門さんに送ったものです。大河原文書と言っても、本当は大熊さんの見聞記です。 |
14日の午前4時〜午前5時までの出来事です。 (28)七ツ半(5時)、吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告します史料(1)。 (29)七ツ半(5時)、吉良家の丸山清左衛門が討入りの第二報を上杉家に報告します。 (30)寅の下刻(5時前)、赤穂浪士が吉良邸を引き上げ、回向院に向かう史料(2)。 |
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史料 |
現代語訳です。 14日夜中の午前5時頃、お屋敷の近所にある豆腐屋が参り、吉良左兵衛様のお屋敷へ浅野内匠頭の家来150人程が夜討・押し込んだということをご報告しました。 同時に、吉良左兵衛様の御足軽丸山清左衛門が大御門へ参り、以上のことを報告しました。 |
「同時に左兵衛様御足軽丸山清左衛門大御門へ参り右之忠信(注進)仕り候」 (大河原文書) |
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上杉家の公式文書『野本忠左衛門書状』 午前6時には、討ち入りの第一報が上杉家に届けられた |
午前6時前、本所の豆腐屋が「お屋敷へ夜討ちがあり、メチャクチャです」と上杉家に報告しました。 同じころ、吉良左兵衛さんの家臣が上杉家に逃げて来て、同様の報告をしました。 『野本忠左衛門書状』にはそう書かれています。 野本さんの記録には、午前6時に上杉家に報告があったとなっています。 1時間の差です。これをどう解釈するのか、さらに検証をしてみました。 |
15日の午前6時〜午前7時までの出来事です。 (31)六ツ前(6時前)、吉良家の丸山清左衛門が討入りの第二報を上杉家に報告する史料(11)。 (追加)七ツ(6時)、吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告します史料(11)。 (32)六ツ前(6時前)、赤穂浪士が吉良上野介を討つ。 (33)六ツ前(6時前)、赤穂浪士が回向院で開門を呼びかける。 (34)六ツ(6時)、赤穂浪士が引き上げを開始する。 (35)六ツ頃(6時頃)、上杉家の野本忠左衛門が赤穂浪士の討入りを知る史料(11)。 (追加)明六ツ(6時)、上杉家の物見2人が吉良邸に派遣される史料(11)。 (36)寅の下刻(6時頃)、赤穂浪士が吉良邸の裏門から出る。 (37)六ツ過(6時過)、赤穂浪士が宮津奥平家前を通過する史料(5)。 (38)六ツ過(6時過)、赤穂浪士が引き上げを開始する。 (39)この頃、上杉家の物見2人が吉良邸に派遣される。 (40)この頃、さらに上杉家の先発隊40人が吉良邸に派遣される。 |
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史料 |
現代語訳です。 さる15日の午前六時前、本所にある豆腐屋が「お屋敷へ夜討ち・乱入があり、メチャクチャです」と言うだけ言った帰って行った。 それに続いて、豆腐屋の後より吉良左兵衛様の御家来に1人が、何とか逃げて来て以上のように申しました。 |
「夫に打続き、跡より左兵衛様御家来之内壱人、漸くのがれ参り候由にて右の趣申し捨て候事」 (野本忠左衛門書状) |
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『大河原文書』を書いた大熊弥一右衛門さん 『野本忠左衛門書状』を書いた野本忠左衛門さん 野本忠左衛門さんは、実行責任者の1人 |
前回、紹介したように『野本忠左衛門書状』は、上杉家の家臣・野本忠左衛門さんの書状です。『大河原文書』は、上杉家家臣の大熊さんの見聞記ですが、大熊さんがどういう立場の人か分かりません。 他方、野本さんは、吉良家に兵を出す上杉家の実行責任者の1人です。 野本さんは、下記の史料が示すように、出兵するのに、色々言い訳をしています。 記者の体験から野本さんの心理を推測してみました。 私たちの体育大会をフェンス越しに見ていた若者4人が、ちょっかいを出したり、シンナーを吸い始めました。そこで、警察に電話すると、場所と人数と状況を聞かれました。10分すると、その都度、若者4人が乗ってきた車をやや移動します。駐車禁止という違反を免れるためです。30分以上いましたが、フェンス内の誰もが反応しなかったので、諦めて、立ち去っていきました。 その後、直ぐ(私たちにはそう思われた)、4台のパトカーと8人のお巡りさんがやって来て、「4人と対応できる人数を集めるのに時間がかかってしまって・・」と言い訳を聞かされました。その場にいた者は、「お巡りさんも人の子や。シンナーを吸う者を相手にはしたくないわなー」と話し合ったものです。 |
史料 |
現代語訳です。 15日の午前6時、「本所にて乱入した者がある。屋敷中大勢が入り乱れ大騒ぎになっている」と言ってきたので、全員が屋敷に出かけるより、まず徒歩侍を2人派遣し、その後深沢平右衛門と片桐六郎左衛門を派遣しました。その後、麻布の中屋敷の御人数総勢も集まるだろう。今日2組程御上屋敷よりも派遣されるであろう。麻生よりすぐに出ては、詳細がはっきりと分からないのに、どうでしようか。こちらの方へ呼び寄ては間延びもするので、双方から出会って、本所に早々に参ろうとするうちに、本所より「浅野家家臣はもうはや引き上げた」と言って来ました。 |
「十五日明六、本所にて乱入候者これ有り、屋敷中大勢入り乱れ大騒ぎに御座候由、申し来り候間、何れも座敷へ罷り出で、先ず先ずかち使之者一両人差し遣わし、追っ付け平右衛門、罷り出で候。その跡にて麻布の御人数惣勢は罷り成るまじく、今日二組程御上屋敷よりも罷り出で参る可く候麻布より直ちに出で候ては、巨細もしかと存ぜずに如何に候此の方へ呼ばせられ候には間延び申すべく間、双方途中にて出合い本所へ早々参り候はんと申す内に本所よりも早や引き取り候と申し来り候」 (野本忠左衛門書状) |
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『大河原文書』に見る派遣者名簿 先遣隊は2人、本隊は38人 しかし本隊は派遣されず |
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史料 |
現代語訳です。 こちらより明け方に遣わされた者は、深沢平右衛門と片桐六郎左衛門です。 しばらく後に遣わされた者は、山下与五大夫・小田切惣右衛門・野本忠左衛門・飯田忠林・有壁道察、それに御留守居付3人・御手明衆10人・御足軽20人の総勢38人です。 深沢平右衛門重政は御守役、片桐六郎右衛門忠重は御留守居、山下与五太夫能正は御使番、 小田切惣左衛門宣親は小姓頭、野本忠左衛門豊満は御取次役、飯田忠林・有壁道察は医師です。 しかし、その前に、赤穂浪士が引き上げたという知らせに接しました。 |
「此方より明方に遣わされ候者 深沢平右衛門 片桐六郎右衛門 此衆暫らく跡に遣わされ候 山下与五大夫 小田切惣右衛門 野本忠左衛門 飯田忠林 有壁道察 御留守居付 三人 御手明衆 十人 御足軽 二十人」 (大河原文書) |
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『野本忠左衛門書状』には 出兵引き延ばしの言い訳 |
15日の午前7時〜午前8時までの出来事です。 (41)六ツ半(7時)、先発隊40人が引き返してきた物見2人と出会い、赤穂浪士の引き上げを知る。 (42)六ツ半(7時)、上杉家の野本忠左衛門が吉良邸に着く史料(1)。 |
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史料 |
現代語訳です。 赤穂浪士が引き上げたならば、どこまでも追いかけるべきである。しかし大勢で方々、赤穂浪士を探している間に、江戸中の騒ぎになってしまうので、先ずは徒歩使いを遣わし、赤穂浪士の行き先を聞き合わせてから、繰り出そうということになり、徒歩使い5〜6人を派遣しました。 そうしている間に、吉良上野介殿が討ち取られ、吉良左兵衛殿もケガをされたと言って来ました。 なおさら、上杉家の御父子様のお考えを思いやると、いよいよ御人数も遣わすべしとの事は、尤もでhある。しかし、いずれにしても出陣し、赤穂浪士の行き先が分からない、これはとんでもないことである。 |
「左様候ては、何方迄方角にあい尋ね可く候大勢にて方々尋ね候間 江戸中の騒ぎに罷りなるべく候間 先ず先ずかち使いを遣わし、行先少も聞き合わせ罷り出ず可しと申し、かち使い五六人を方々へ出し申す処に、上野介殿討ち取られ 左兵衛殿手負い申さると申し来り候。 猶更、御父子様共に御所存に思し召され、いよいよ御人数も遺わさる可しとの儀、尤にて、何れも罷り出で所々行方知れ兼ね、十方もこれ無き事に候」 (野本忠左衛門書状) |
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参考資料 | |||||||
*1 | 大河原文書 | *6 | 討入り実況報告書 | *11 | 野本忠左衛門書状 | *16 | 土屋主税調書 |
*2 | 江赤見聞記 | *7 | 礒貝富森両人覚書 | *12 | 米沢塩井家覚書 | *17 | 本多孫太郎家来調書 |
*3 | 小野寺十内書簡 | *8 | 小野寺書状 | *13 | 吉良家口上書 | *18 | 細川家御預人始末記 |
*4 | 寺坂私記 | *9 | 白明話録 | *14 | 吉良家来口上書 | *19 | 寺坂筆記 |
*5 | 宮津家文書 | *10 | 原惣右衛門手簡 | *15 | 栗崎道有日記 |