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元禄15(1702)年12月15日(第296号)

忠臣蔵新聞

泉岳寺到着の時間?

仙石伯耆守邸への自訴は午前8時前
泉岳寺到着は午前8時が多数説
泉岳寺から寺社奉行に報告は午前10時
幕府から上杉家に鎮撫使派遣は午前11時
赤穂浪士の仙石邸到着は午後20時頃

泉岳寺(挿絵:寺田幸さん)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
『赤穂義士実纂』(斉藤茂編著)も
『忠臣蔵のことが面白いほどよくわかる本』(山本博文著)も

「朝五ツ過ぎ」を「午前8時過ぎ」と解釈
 15日の午前7時〜午前8時までの出来事です。
(41)六ツ半(7時)、先発隊40人が引き返してきた物見2人と出会い、赤穂浪士の引き上げを知る。
(42)六ツ半(7時)、上杉家の野本忠左衛門が吉良邸に着く史料(1)
(43)六ツ半(7時)、幕府が鎮撫使として高家を上杉家に派遣する。
(44)この頃、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(45)辰の上刻(7時半頃)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(46)五ツ(8時)、仙石伯耆守が「吉良邸討ち入り事件」を報告するために登城する。
(47)五ツ(8時)、上杉家の当主上杉綱憲も登城する。
(48)辰の刻(8時頃)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(49)五ツ過(8時過)、赤穂浪士が泉岳寺に着く史料(2)
(50)この頃、上杉家の捜索隊が四方に散る。

史料(1)
史料(1)の解説です。
 明け方に上杉家から吉良邸に使わされたのは、深沢ら3人でした。
 その後、野本忠左衛門ら37人が派遣されています。
 深沢平右衛門重政は御守役、片桐六郎右衛門忠重は御留守居、山下与五太夫能正は御使番、小田切惣左衛門宣親は小姓頭、野本忠左衛門豊満は奥取次役、飯田・有壁は医師です。
史料(1)の原文です。
 「此方より明方に遣わされ候者
  深沢平右衛門
  片桐六郎右衛門  此衆暫らく跡に遣わされ候
  山下与五大夫
               小田切惣右衛門
               野本忠左衛門
               飯田忠林
               有壁道察
      御留守居付 三人
      御手明衆 十人
      御足軽 二十人」(大河原文書)

史料(2)
史料(2)の現代語訳です。
 12月15日の朝午前8時過ぎ、46人の赤穂浪士(寺坂吉衛門は不明、吉田忠左衛門と富森助右衛門は仙石邸に自訴、本当は44人)が芝の泉岳寺に到着した。浪士は、それぞれ小手(腕全体を防護する小道具)を指したまま、打ち損じた槍・長刀の血がついたままで、吉良上野介殿の首を持参していました。
 寺中は大騒ぎになりました。先ず門を差し固めようと、皆が言うと、「私たちは浅野内匠頭の家来で、今朝亡君の敵である吉良上野介殿を討ち取り、泉岳寺に参りました。しかし、誰も命が助かりたいと思って泉岳寺にやって来たのではありません。最も、お寺に狼藉をすることもありません。只今上野介殿の首を主君の墓所に備えたいだけです。それが済むまでは御門を差し固めて下さい」と頼み、すぐに内匠頭様の墓所へ参り、香爐と抹香を借り、墓所にあった手桶に水を汲み、上野介殿の首を洗い、主君の石塔の二段目にその首を置きました。
 その後、大石内蔵助がまず焼香を行いました。次いで、その他の浪士が自分の名を名乗り、作法の通り焼香などを行いました。それらが終わると、皆一同に声をあげ愁涙に絶したということでした。その後、お寺の方丈へやって来て、和尚へ御目にかかり、これまでの経過を詳しく報告しました。
*「愁涙に絶したる」の「愁」は、悲しい思いとか草木も人の心もすべてが引き締まるという意味です。
「絶したる」とは、限度をはるかにこえているとか、かけはなれているという意味です。「言語に絶する」というような使い方をします。つまり、苦労に苦労を重ね、耐えに耐えて、念願を果たした時の涙は、作者の想像を遙かに超えるほどすごかったという意味です。
史料(2)原文です。
 「十二月十五日之朝五ツ過ぎ(午前八時過ぎ)四十六人の面々(ママ)芝泉岳寺へ、各々小手さし候ままにて 打損じたる鎗長刀血付きたるままにて 上野介殿首を守護し持参仕る 寺中騒動仕り 先づ門を堅め候由 何れも申し候は「浅野内匠家来今朝亡主之敵吉良上野介殿を討取りこれまで参り候 併し何れも命助かり度くとのためにてはこれ無く候 尤御寺へ狼籍を仕る可き様も御座無く候 唯今上野介殿頸を墓所へ備え申し度き迄にて候 その儀相い済み候迄御門差し堅め下され候様に」と頼み 則内匠様墓所へ直に参り 香爐抹香を借り 墓所之手桶に水を汲み 上野介殿首を洗い 御石塔の二段目に指し置き その後内蔵助披露にて 銘々仮名名実名名乗りたて 実検の如く仕る也 事済み候て皆一同に声をあげ愁涙に絶したる由 其の後方丈へ参り和尚へ御目にかかり委細申し達する也」(江赤見聞記)

吉良邸から泉岳寺(約12キロ)までは、私の体験でも約3時間
戦闘後、鎖帷子を着け、討ち入り道具を持って、ケガ人を抱え、何時間?
当時の記録でも、ほとんどは約3時間
↑クリック(拡大写真にリンク)
 午前5時に吉良邸から引き揚げたとする説がありす。この立場は、泉岳寺着を午前8時とします。8時に赤穂浪士が泉岳寺に着いたとする書籍が11冊中6冊ありました。
 午前6時に吉良邸から引き揚げたとする説が多数派です。この立場は、泉岳寺着を午前9時とします。9時に赤穂浪士が泉岳寺に着いたとする書籍が11冊中3冊ありました。
 中には、午前6時に吉良邸を引き揚げ、午前8時に泉岳寺に着いたとする説もありました。この場合は、不利な条件で約12キロを2時間で歩いたことになり、無理があります。 
 吉良邸から泉岳寺までは約12キロです。1キロ=15分で計算する私の足でも、約3時間でした。健脚の人も約3時間です。毎年、中央義士会(中島康夫理事長)でも、引き上げコースを実際に体験する企画を実施しています。その報告でも、約3時間です。

午前4時討ち入りが多数説
午前6時引き揚げが多数説
午前9時泉岳寺到着が多数説

私の疑問(1)大石内蔵助は、厳寒の室外で、不動で、2時間も指揮出来るか
私の疑問(2)上杉家の動静との関係をどうみるか
 15日の午前9時の出来事です。
(51)五ツ半前(9時前)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(52)五ツ半(9時)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(53)五ツ半(9時頃)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(54)五ツ半(9時頃)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(55)五ツ半過(9時過)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。

引き上げが時間が5時、自訴が8時、登城に出立が9時、
寺社奉行の報告が10時過ぎ、協議・帰宅が12時というのが自然
まだまだ十分な検証が必要な私の推論です
 15日の午前10時〜正午12時までの出来事です。
(56)巳の刻(10時)、赤穂浪士が墓所より泉岳寺本堂・衆寮に移動する。
(57)四ツ過(10時過)、赤穂浪士が泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に、吉良上野介の首級を供える。
(58)四ツ過(10時過)、赤穂浪士が墓所より泉岳寺本堂・衆寮に移動する史料(9)
(59)この頃、泉岳寺の酬山和尚が寺社奉行に報告する史料(9)
(60)九ツ(11時)、墓前での焼香が終わる。
史料(9━1)
史料(9━1)の現代文です。
 泉岳寺に参り、直ちに今は亡き主君の墓所へ参詣し、吉良上野介殿の印(首)を主君の墓前に捧げました。
 泉岳寺の酬山和尚からの使いの僧が「お寺の寮に入りように」申し聞かされたので、墓所より寺内へ移りました。
 酬山和尚は、早速寺社奉行の皆様に御報告をと言って出かけられました。酬山和尚は、寺社奉行より帰って来て、私たちと対面いたしました。
 寺より、早速、認めなどを申しつけられ、終日、ご馳走を振る舞われました。
史料(9━1)の原文です。
 「泉岳寺へ参り直に亡主之墓所へ参詣 上野介殿印を手向け焼香仕候 住寺より使僧を以って寮へはいり候様に申し聞けられ候に付き 寺内へ罷り越し候 住寺は早速寺社奉行中様へ御断りとして罷り出でられ 帰寺後対面候 寺より早速認め等申し付けられ終日馳走にて候」(原惣右惣門討入実況報告書)

史料(9━2)
史料(9━2)の現代文です。
 まず、この様の大事は、寺社奉行に届ける必要がある。そこで人数を調べるとして、赤穂浪士1人1人に名を言はせて書かせた所が45人となった。吉田忠左衛門と富森助右衛門の2人は大目付の仙石伯耆守殿へ遣わしている。合わせると47人になってしまう。そこで、もう一度、1人1人を数へ改めると今度は
44人なった。赤穂浪士の皆が言うには絶対45人という。そこで、今度は、1人づつ呼んで、本人より自分の名を答をさせると、寺坂吉右衛門1人がいなかった。
 皆が言うには、「夜前、討入りした時までは、吉右衛門は一所に吉良邸の門へ入り、吉良邸に一所に居たが、どうしてここには居ないのだろうか」ということになった。最早、それを書き改める時間もなく、大石内蔵助が「吉右衛門は居らぬと寺社奉行に御届け下さい」と言う。
 そこで、酬山和尚は、47人連盟の討ち入り口上書を、寺社奉行の阿部飛騨守正喬邸へ持参した。和尚は、口頭で、「口上書には47人とあるが、寺坂吉右衛門は居らぬ」と届け出ました
史料(9━2)の原文です。
 「まず、か様の大事寺社奉行へ届ける事なれば人数を承わるべしとて、一人一人名を言はせ書かせしに四十五人なり。二人は伯耆守殿(仙石)へ遣わせしなり。合せて四十七人なり。扨一人一人を数へ改めしに四十四人なり。いづれも申さるるに何分四十五なりとあり。それゆえ此度は一人づつ呼びて、その人より名の答をさせしに寺坂吉右衛門一人なし、いづれも申さるるには、夜前討入りしまで吉右衛門は一所に門へ入り一所に居たりしが、どうして居らぬはとある事なり。最早、それを書き改める間これなく吉右衛門は居り申さず由、御届け下さるべく由申さるるに付、寺社奉行へ右の書き付け和尚持参申されたるなり」(白明話録)

検証:
(1)墓前での焼香の時間は、10時と11時で、時間差は1時間です。
(2)焼香が終わって、泉岳寺本堂・衆寮に移動する時間は、10時です。
(3)8時に泉岳寺に着き、2時間かかって焼香などをし、10時に泉岳寺本堂・衆寮に移動する。そういうシナリオですが、浅野内匠頭の墓前で2時間も費やしています。時間がかかっていると言えば言えるし、長年の艱難辛苦相照らすには、必要な時間とも言えます。
(4)赤穂浪士らが泉岳寺本堂に移動した後の10時、泉岳寺の酬山和尚が寺社奉行に報告する
(4)幕府が高家を鎮撫使として上杉家に派遣する時間は、7時から11時で、2時間の差があります。仙石伯耆守が登城して協議した後の鎮撫使派遣は、11時が自然です。
(5)吉田忠左衛門らが仙石邸に自訴する時間は、7時から9時で、2時間の差があります。
(6)8時に、自訴を受けた仙石伯耆守が「討ち入り事件」を報告するために登城し、寺社奉行の報告もあり、老中らと協議して、帰宅するのが12時です。帰宅時間には史料があります。
(7)このことから、引き上げが時間が5時、自訴が8時、登城に出立が9時、寺社奉行の報告が10時過ぎ、協議・帰宅が12時というのが自然ではないでしょうか。
参考資料
*1 大河原文書 *6 討入り実況報告書 *11 野本忠左衛門書状 *16 土屋主税調書
*2 江赤見聞記 *7 礒貝富森両人覚書 *12 米沢塩井家覚書 *17 本多孫太郎家来調書
*3 小野寺十内書簡 *8 小野寺書状 *13 吉良家口上書 *18 細川家御預人始末記
*4 寺坂私記 *9 白明話録 *14 吉良家来口上書 *19 寺坂筆記
*5 宮津家文書 *10 原惣右衛門手簡 *15 栗崎道有日記

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