元禄15(1702)年12月15日(第297号)
赤穂浪士が仙石邸着20時
赤穂浪士が細川邸着午前2時
赤穂浪士が仙石邸着20時
細川家に赤穂浪士受取命令届く22時
赤穂浪士を各大名に引渡23時
赤穂浪士が各大名邸着午前2時
義士洗足の井戸(仙石伯耆守邸跡) |
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元禄15(1702)年12月15日(東京発) |
細川家に「赤穂浪士受取命令」が届いたのが22時、 その前に仙石邸での約2時間取り調べ 赤穂浪士が仙石邸に着いたのは20時前 |
15日の午後14時〜午後23時までの出来事です。 (61)九ツ(11時)、幕府の検視が吉良邸に着く。 (62)この頃、幕府の鎮撫使が上杉邸に着く史料(12)。 (63)九ツ半(12時)、大目付の仙石伯耆守が登城より帰宅する史料(2)。 (64)午の刻(12時)、伊予の松山藩主の松平定直にお預けの奉書が届く。 (65)八ツ(14時)、幕府の検視が吉良邸に着く。 (66)八ツ過(14時過)、幕府の検視が吉良邸に着く史料(11)・史料(12)。 (67)申の刻(15〜17時)、伊予の松山藩主の松平定直にお預け時刻変更の奉書が届く。 (68)八ツ半過(15時)、幕府の目付が大石内蔵助らに仙石邸移動を申し渡す史料(2)。 (69)申の上刻(15時半)、泉岳寺でが赤穂浪士にお粥を振る舞う。 (70)七ツ半(16時)、幕府の目付が大石内蔵助らに仙石邸移動を申し渡す。 (71)申の上刻頃(16時頃)、赤穂浪士が泉岳寺が供応したお粥を食べ終わる史料(9)。 (72)六ツ(18時)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう史料(9)。 (73)六ツ頃(18時頃)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう。 (74)六ツ半(19時)、赤穂浪士が仙石邸に着く。 (75)五ツ(20時)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう。 (76)五ツ過(20時過)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(18)。 (77)戌の上刻(20時頃)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(10)。 (78)戌の下刻(21時頃)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(2)。 (79)四ツ過(22時過)、幕府から細川家に、「赤穂浪士受取命令」が届く史料(18)。 (80)九ツ時分(23時頃)、細川家の受け取り役人が仙石邸に着く。 (81)九ツ(23時)、赤穂浪士を四家に引き渡す。 |
検証: (1)仙石伯耆守の登城・協議後の14時、幕府は検視を吉良邸に送る。 (2)仙石伯耆守の登城・協議後の15時、幕府は目付を泉岳寺に送る。 (3)赤穂浪士が泉岳寺を出て仙石邸に向かう時間は、18時から20時で、2時間のさがあります。 (4)赤穂浪士が仙石邸に着いた時間は、19時から21時で、2時間の差があります。 (5)22時過ぎ、幕府から細川家に「赤穂浪士受取命令」が届く。 (6)23時頃、細川家の受け取り役人が仙石邸に着く。 (7)幕府から細川家に「受取命令」が届いたのが22時ですから、その前に約2時間取り調べたとして、赤穂浪士が仙石邸に着いたのは20時前になります。 |
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深夜2時、 赤穂浪士は四家に着く |
15日の午前1時〜16日の午後17時までの出来事です。 (82)牛の刻(1〜3時)、赤穂浪士の17人が細川邸に着く。 (83)八ツ(2時)、赤穂浪士が四家に着く。 (84)八ツ(2時)、幕府の検視が吉良邸に着く。 (85)八ツ過(2時過)、赤穂浪士が四家に着く史料(18)。 (86)酉の刻(17時過)、泉岳寺より吉良上野介の首級が吉良邸に届く |
検証: (1)午前2時、赤穂浪士が四家に到着する。 |
今回は敬称を略しました。 |
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以上は今後の動静なので、各項目ごとに詳細を報告します |
参考資料 | |||||||
*1 | 大河原文書 | *6 | 討入り実況報告書 | *11 | 野本忠左衛門書状 | *16 | 土屋主税調書 |
*2 | 江赤見聞記 | *7 | 礒貝富森両人覚書 | *12 | 米沢塩井家覚書 | *17 | 本多孫太郎家来調書 |
*3 | 小野寺十内書簡 | *8 | 小野寺書状 | *13 | 吉良家口上書 | *18 | 細川家御預人始末記 |
*4 | 寺坂私記 | *9 | 白明話録 | *14 | 吉良家来口上書 | *19 | 寺坂筆記 |
*5 | 宮津家文書 | *10 | 原惣右衛門手簡 | *15 | 栗崎道有日記 |