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平成21(2009)年9月27日(第299号)

忠臣蔵新聞

教科書に見る山鹿素行と赤穂事件
情報化時代と忠臣蔵(リンク01)

素行、赤穂城二ノ丸門の縄張り(1653年)

赤穂義士と山鹿素行全国フォーラム
日時:2009年9月27日13時〜16時/場所:赤穂ハーモニーホール

スクリーンを背にパネリストとしてプレゼン(発表)する筆者(中央)
教科書に見る山鹿素行と赤穂事件←クリック
リンク(01)の内容は以下の通りです

 「次代を担う若者が支持しない思想・文化は衰退する」というのが筆者の持論です。
 山鹿素行や大石内蔵助の考えや行動は、江戸時代(封建主義社会)のものです。
 それを今(民主主義社会)の時代にそのまま当てはめることは出来ません。その考えや行動を、現代の若者に伝えるには、若者の目線で訴える必要があります。
 そこで、私が採用した方法が、情報化時代の手法です。
 デジカメで写した写真をホームページソフト(ビルダー3)で編集し、ホームページソフト(ビルダー3)でプレゼンするというものです。途中から、動画を編集するしてプレゼンする方法も加味しました。
 「今の若者は・・」と大人たちは否定的にとらえがちです。そういう部分もありますが、自分を主張する気持ちはとても強い。それを大切にして、主張を具体化する方法を提示すると、今の若者はびっくりするほど精力的になります。

 下の地図は元禄時代の赤穂城絵図です。生徒には、次のような説明をしました。
 「江戸時代は一国一城令ではあったが、例外は、浅野長直が1648(慶安元)年に着工し、1671(寛文11)年に完成させた赤穂城である。その費用に赤穂塩田の開発、塩屋新田の開墾などのおこなった賄った。赤穂城の本丸の北側には山鹿素行の銅像がある。その山鹿素行が二ノ丸門を設計した」
 授業後、ある生徒がやってきて、次のような指摘をしました。
 「大手門・塩屋門・清水門・本丸門は、直進して右折して城内へに入るが、二の丸門だけは、直進して左折して本丸へに入っている」というのです。うーん、若者の感性は素晴らしい。「じゃー、それをホームページにしてみようか」と誘うと、乗り気になりました。さらに、山鹿素行を調べ、次のようなホームページの完成となりました。
1701(元禄14年)の赤穂城絵図(大石神社蔵)

山鹿素行 赤穂城二ノ丸門(赤穂歴史博物館)
赤穂城二の丸門(直進して左折して本丸へ)
 1651(慶安4)4月20日、将軍徳川家光が死ぬ。その頃生徒4000人教えていた山鹿素行(30歳)は、家光と懇意だったので、幕府への就職の約束がダメとなる。
 7月26日、由井正雪の乱(慶安の変)がおこる。その結果、幕府は、浪人に対して、住居を届け出るよう命令する。これは、常に、危険な浪人を見張るためだそうだ。
 8月18日、徳川家綱が4代将軍となり、秀忠の4男で叔父の保科正之が将軍を補佐する。正之は、由井正雪の乱を反省して、浪人を発生させる原因の武断政治を改め、文治政治(特に朱子学により統治)に力をいれる。
増山氏
お江与の方 ||━ 徳川家綱
お愛の方 ||━ 徳 川 家 光
||━ 徳川秀忠 ||
|| || ||
|| || ||━ ━━━━━ 徳川綱吉
|| || 八百屋お玉(桂昌院)
徳 川 家 康 ||━ ━━ 保科正之
お静の方
保科正之と将軍家の関係系図

史料 (1) 口語訳
 史料(1━1)1652(承応1)12月8日、山鹿素行(31歳)は、浅野長直邸に至り、君臣の礼を為す。素行の禄は1000石で、赤穂家老大石家の録は1500石でした。
 史料(1━2)1653(承応2)10月15日、素行(32歳)は江戸を出て、9月に赤穂に着きました。7カ月滞在し、この間二の丸廓虎口の縄張りをしています。
(先生に史料を口語訳してもらった)
史料 (1)
(1)「天気快晴。午刻(正午)浅野長直主に至り、君臣の礼を為す」(『年譜』)
(2)「大守縄張二廓虎口、招僕談之、大守自臨其地、…僕取間縄改直之…」(『山鹿素行先生日記』)

赤穂城築城と山鹿流兵学
 『武教全書』(山鹿流兵学の教科書)によれば、
 四神相応の地形の事については、「東に小河・田沢があって青竜という。南に流水があって朱雀という。西に道があって白虎という。北に山林があり玄武という」とある。
 赤穂城は、東に千種川があって青竜、南に瀬戸内海があって朱雀、西に備前街道があって白虎、北に山崎山より雄鷹台・黒鉄山があって玄武となっているので、素行が言う四神相応の地形といえる。

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