平成21(2009)年9月27日(第300号)
忠臣蔵新聞第300号発行!! 11年5か月の道、読者に支えられ 第1号発行:1998年6月14日 |
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第300号のテーマは 吉良邸討入りは集団テロか、義挙か |
赤穂義士と山鹿素行全国フォーラム |
日時:2009年9月27日13時〜16時/場所:赤穂ハーモニーホール |
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スクリーンを背にパネリストとしてプレゼン(発表)する筆者(中央) | |||
教科書に見る山鹿素行と赤穂事件←クリック | |||
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「次代を担う若者が支持しない思想・文化は衰退する」というのが筆者の持論です。 山鹿素行や大石内蔵助の考えや行動は、江戸時代(封建主義社会)のものです。 それを今(民主主義社会)の時代にそのまま当てはめることは出来ません。その考えや行動を、現代の若者に伝えるには、若者の目線で訴える必要があります。 そこで、私が採用した方法が、情報化時代の手法です。 デジカメで写した写真をホームページソフト(ビルダー3)で編集し、ホームページソフト(ビルダー3)でプレゼンするというものです。途中から、動画を編集するしてプレゼンする方法も加味しました。 「今の若者は・・」と大人たちは否定的にとらえがちです。そういう部分もありますが、自分を主張する気持ちはとても強い。それを大切にして、主張を具体化する方法を提示すると、今の若者はびっくりするほど精力的になります。 | |||
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吉良邸討入りは、集団テロですか、それとも義挙なんですか | |||
高校生から、「吉良邸討入りは、集団テロですか、それとも義挙なんですか」という質問をよく受けます。 どうしてと問うと、「友達が言っていた」とか「親戚の人から聞いた」というのです。 そこで、当時の史料を使って、ホームページを作ることを提案しました。 | |||
吉良上野介を治療する栗崎道祐(挿絵:寺田幸さん) | |||
老中の決定は喧嘩両成敗(栗崎道祐の証言) | |||
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史料(1━1)「さっきは、老中より上野介が内匠頭に一方的に切り付けられたので、治療するように言われました」→この段階では、老中の決定は、一方的に悪いのは浅野内匠頭ということになります。 史料(1━2)「ただいまは、老中よりこれは喧嘩なので、治療する必要はないと言われました」→この段階では、老中の決定は、上野介と内匠頭は喧嘩だったということになります。 *高校生の解説1:史料を調べた結果、老中は喧嘩両成敗と断定していたことが分かりました。 | |||
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(1)「先刻ハ公儀より療治被仰付」 (2)「只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及」 | |||
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5代将軍徳川綱吉 | |||
将軍綱吉は激怒して不公平なお裁き(討入りの原因) | |||
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史料(2━1)「浅野内匠頭は殿中松の廊下であることも弁えず、自分の個人的な恨みで刃傷に及んだということは不届きである。よって浅野内匠頭には切腹を申しつける」→将軍綱吉は、内匠頭に即刻切腹を命じました。 史料(2━2)「吉良上野介は、殿中松の廊下であることを弁え、手向かいしなかったことはけなげで感心である。くれぐれも大切に養生いたすように」→将軍綱吉は、上野介にはねぎらいの言葉をかけました。 *高校生の解説2:将軍徳川綱吉は喧嘩両成敗をくつがえして不公平な裁きをしたことが分かりました。これが第2の事件(吉良邸討入り)発展したことも分かりました。 | |||
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(1)「場所柄も不弁自分宿意ヲ以及刃傷候段不届ニ付其身は切腹被仰付」 (2)「上野介儀御場所ヲ弁不致手向神妙之至・・・随分大切ニ保養可致候」 | |||
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吉良邸に討ち入る内蔵助ら47人(赤穂義士誠忠畫鑑) | |||
47人が吉良邸に討ち入るのは集団テロか? | |||
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史料(3━1)「遺恨などを理由に10以上で徒党を組んで狼藉に及んだ上、人を殺しした場合は、その主犯は獄門とする」→10人以上の集団で討ち入り、殺人を犯した場合は、獄門になります。 史料(3━2)「盗みしようと何人かで組んで、人の家に押し入った者で、その主犯は獄門、共犯は死罪とする」 *高校生の解説3:吉良邸に集団で討ち入った罪に対して、大石内蔵助ら47人の罰は、内蔵助は当然に獄門、その他46人は当然に死罪(斬首)となるというのが先生の解釈です。つまり、当時の規定では、47人は集団テロなら当然獄門と死罪になるということが分かりました。 | |||
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(1)「遺恨等をもって十人以上徒党を結び狼藉の上 人を殺し候においては、頭取 獄門」(あばれもの御仕置之事) (2)「盗み致すべしと徒党いたし、人家え押込候者 頭取 獄門 同類 死罪」(御定書56条) | |||
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集団で討ち入った罪に対する罰は当然に獄門か死罪 | |||
獄門(斬首の後、その首は2夜3日間、獄門台に晒される) | |||
死罪(斬首の後、試し斬りにされる) | |||
*高校生の解説4:獄門にしても、死罪(斬首)にしても、直ぐに、肉体の一部は帰ってきません。遺族は、肉体のない状態で葬式が出来るでしょうか。遺族とって、これほど残酷な刑罰はないと思いました。 | |||
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内蔵助らの吉良邸討ち入りを庶民・大名・学者が支援 | |||
自分の手柄のように噂する江戸の人々(挿絵:寺田幸さん) | |||
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史料(4━1)「(内蔵助らの討ち入りは)江戸中の庶民が自分らの手柄のように思っている」→これは江戸に来ていた京都の人の手紙です。 史料(4━2)「(主君から)17人の勇士を細川家の素晴らしい守り神と考えているとのご意思をお聞きしました。何にても有り難いことだと思って感激の涙を流しました」→熊本藩の藩主・細川綱利は預かった内蔵助ら17人を勇士を褒めたたえ、17人の世話を仰せつかった堀内伝右衛門は感涙を流しました。 史料(4━3)「上野介殿を討ち取ったということは、未だ聞いたことがありません。忠義の気が満ち満ちています。このような武士を育てた赤穂の風土がこれでよく分かります」→学者である室鳩巣が忠義の武士を育てた赤穂の風土を褒めたたえています。 *高校生の解説5:江戸の庶民や、大名・学者までが47人の行動に拍手喝采をおくっていることにびっくりしました。その理由を調べてみたくなりました。 | |||
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(1)庶民「江戸中之手柄ニ御坐候」(手紙) (2)熊本藩の藩主細川綱利「十七人之勇士共ハ御屋鋪ニ能き守神と被思召との御意承候・・何茂難有可被奉存と感涙を流し申候」(『堀内伝右衛門覚書』) (3)室鳩巣「上野介殿を討取申候儀、前代未聞、忠義の気凛々。赤穂士風之厚も是に而相知れ・」(『義人録』) | |||
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将軍綱吉は、庶民らの支持で悩みに悩む その結果、獄門・死罪ではなく、武士として切腹を命ず(義士の誕生) 吉良家をとりつぶし→ついに喧嘩両成敗が成立(忠臣蔵の人気の秘密) | |||
5代将軍徳川綱吉 | |||
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史料(5━1)「武士に対する礼として切腹を命じれば、上杉家(当主は吉良上野介の実子)の願いを無にすることもない。47人の忠義を軽視する訳でも当然ない。もっとも公平な決定である」→法治主義論者の荻生徂徠は、罪は罪であるが、義もある。そこで、両者が並立する武士の礼(義)としての切腹(罪)を主張しています。 史料(5━2)「浅野内匠頭の家来46人が徒党して、吉良上野介を討ち取ったということについては、大変よくないことである。よって切腹を申しつける」→幕府は、46人が徒党を組んで上野介を殺害したことは大罪であると断定しています。しかし、その罰は獄門・死罪(斬首)ではなく、武士としての切腹というのです。幕府は、この段階で47人の吉良邸討入りを義挙と認めたことになります。 史料(5━3)「47人が吉良上野介を討ち取った時、その方(上野介の養子義周)の行動がよくなかったので、領地を没収し、その身は諏訪安芸守忠虎(信濃国高島城主)に預ける」→吉良家は、領地を没収され、後継ぎに吉良義周はお預けとなり、吉良家は途絶えました。 *高校生の解説6:幕府が46人を義士と認めたことにびっくりしました。さらに幕府が吉良家を断絶させ、喧嘩両成敗の決定をしたことにもびっくりしました。大石内蔵助の偉大さをあらためて実感できました。 | |||
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(1)荻生徂徠「士の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、かれらが忠義を軽るんぜざるの道理、もっとも公論と云うべし」(『徂徠擬律書』) (2)「内匠家来四十六人徒党致し、上野を討侯儀・・・重々不届侯、これに依り切腹申付者也」(『切腹御仕置御用』) (3)「上野介を討ち候節、其方仕形不届に付領知被召上、諏訪安芸守へ御預け被仰付候」(『忠誠後鑑録』) | |||
*先生に史料を口語訳してもらいました。 |