元禄15(1702)年12月15日(第305号)
忠臣蔵新聞第305号発行!! 再び、元禄時代にタイムスリップ |
第305号のテーマは 泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(1) 主君・浅野内匠頭さんの墓前で合掌 |
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』) |
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元禄15(1702)年12月15日(東京発) |
討ち入りから引き上げまでの「おさらい」 |
赤穂市で行われた「赤穂義士と山鹿素行全国フォーアム」にパネリストとして参加しました。 地元の高校の総合で「地域の歴史━忠臣蔵を中心に━」の講座を依頼されました。 その間の経緯を、7回に分かって報告しました。 今回からは、再び元禄時代に戻ります。 そこで、読者の皆さんに、討ち入りから引き上げまでのおさらいをしたいと思います。 (1)赤穂浪士は、午前4時頃、吉良邸に討ち入りました。 (2)赤穂浪士は、午前5時頃、吉良上野介さんの首を取り、引き上げました。引き上げ時間は午前6時とするのが多数説ですが、記者は、午前5時説を採用しています。 (3)回向院で上杉家の追っ手を待つ計画でしたが、回向院が拒否したので、両国橋の袂で待つことにしました。追っ手がないことを確認した赤穂浪士は、泉岳寺に向けて出発しました。 (4)吉田忠左衛門さんと富森助右衛門さんは、午前8時前に、大目付の仙石伯耆守さんへ吉良邸への討ち入りを自首しました。 (5)赤穂浪士は、午前8時すぎ、泉岳寺に到着しました。多数説も午前8時です。 (6)大目付の仙石伯耆守さんは、午前9時、吉田忠左衛門さんらから事情を聴取して、江戸城に登城しました。 |
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泉岳寺僧の証言(1) 最初に、岡野金右衛門さんら3人がやって来ました 次いで、上野介さんの首を担いだ間兄弟がやって来ました 岡野さんらは「亡君の意趣を継いで、吉良上野介殿の首を取ってきた」と |
記者は、早速、泉岳寺へ直行しました。泉岳寺の僧・快舟さんが質問に応えました。 元禄15(1702)年12月15日の朝、泉岳寺内にある快舟寮の寮主である僧快舟さんは、五つ半(午前九時)頃、門まで行き、門外を見ると、見馴れない装束を着て、抜身の鑓を持って、門の方へ3人がやって来ました。 出家衆は「これは一体何をしてきた人か」と不審に思っている内に、段々近くによって来ました。鑓に何やら結びつけて、2人で担いでいました。後に、聞くと、鑓に結び付けていたのは吉良上野介殿の首で、担いでいた2人は間兄弟でした。 さて、初て中門へやって来た岡野金右衛門ら3人へ快舟や其外の出家衆が申すには、「どこからお越しのお方ですか、見たこともない様子である、簡単には門の中に入れることは出来ない」と言うと、3人は「私たちは、浅野内匠頭の家来で、亡君の意趣を継いで、吉良上野介殿の首を取り、本寺にやって来ました。ご心配するような者ではありません」と答えました。 |
元録十五年午十二月十五日之朝快舟隣・・、五つ半時頃のよし申門迄参り門外の方を見申候得は、見馴れぬ装束にて抜身の鎗を持申門之方江三人参り候もの有之候故 出家衆是は何としたる人かと不審に存見申候内に段々程近に成り候処、・・鑓に何やらん結ひ付て両人にて荷ひ参候衆有之後承り候得は結付たるは上野介殿の首なり、荷ひたる人両人は間兄弟の人なり、 扨初て中門江被参候三人之衆江快舟其外の出家衆申候は、是は何方より御越いか成る御衆にて候や見届申さぬ御様子、卒爾に門を入れ申事成り申間敷と申候得は、三人之衆返答に、是は浅野内匠家来亡君の意趣を継吉良上野介殿首を取り御寺江参り候、御気遣ひ成る者にては無御坐候と申候由、 |
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泉岳寺僧の証言(2) 赤穂浪士にまとわりつく江戸庶民 当時からにんきがあったと証言 「主君の仇を報じた」と聞き、泉岳寺僧の言葉遣いが一変 |
その時、出家衆は「もっともな御忠義である」と納得しました。「酬山長恩和尚にお聞かせしよう」と言って出家衆2人が本堂本堂に行きました。 主君の仇を報じたということを聞き、泉岳寺の僧の言葉遣いが一変して、丁寧になりました。 そうこうしていると、段々、後より大勢がやって来られました。46人が追々にやって来られました。 その時、門前の町にて大勢の見物人が赤穂浪士に付まとい、表門近くにやって来たので、46人より見物人の方が大勢なので、騒しかったので、「牛町の門を閉じるように」と出家衆に言いつけましたが、大勢が押入りそうで何とも出来ませんでした。 そこで侍衆13人ほどが後ろを振り返り、鑓を向けると、見物人はどつと後へ退いたので、門を閉じました。 |
其時出家衆扨々御尤之御義承届候、和尚江可申聞とて出家衆両人本堂江参候、 其内に段ヽ跡より大勢参られ候、四拾六人揃へ候得は追々に(本ノマヽ)被参候、 其節門前の町にて大勢見物右之衆中に付まとひ表門近く参候ニ付、四十六人之衆之内より見物大勢にて騒敷御坐候間牛町之門御うたせ被成候得と出家衆江申候得共、大勢押入そふにて何とも成り不申候之処 侍衆十二三人も跡江ふりかへり鑓を向ケ被申候得は、見物之面々どつとしさり申処を門うたせ申候、 |
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泉岳寺僧の証言(3) 内蔵助さん「御仏前へ鑓先を向ける訳にはいかない」 赤穂浪士全員が内匠頭さんの墓前にうずくまる 一番焼香は間重次郎さん |
それ以後、赤穂浪士は残らす門へ入りました。その時、大石内蔵助さんは、「御仏前へ鑓先を向ける訳にはいかない」との配慮を申され、浪士の方々にもその旨を指示いたしました。 それより直に浅野内匠頭様の御墓所へ行きました。赤穂浪士全員が御墓前にうずくまり、上野介殿の首を取り出し、包んで来た血まみれの小袖をたたんで、切石の上に敷きました。その上に吉良上野介殿首を置き、御墓へ手を合わされていました。 その時、お寺より香爐・抹香など出しました。一番に間重次郎さんが拝礼されました。 その後、赤穂浪士全員が本堂や衆寮へ来られました。その内に、寺より気を付け、手負の浪士の療治をさせましょうと言って、芝大仏の近所の開業している外科の松原玄佐先生を呼びに行かせました。 |
其以後残らす門江入り申候節内蔵助被申候は、御仏前江鑓先むけ不申候様ニ心付被申候へと下知被致候、 夫より直に内匠様御廟所江参り何れも御廟前につくはひ上野介殿首を取り出し包来り候血まふれに成たる小袖を袖たゝみにして切石の上に敷首を置御廟江手向被申候、 其節寺より香爐・抹香等出し申候、一番に間重次郎拝礼致され候、 其後何も本堂并衆寮江被参候、其内に寺より気を付手負の衆之療治致させ候へしとて芝大仏近所ニ居申候外科(料)松原玄佐を呼に遣候由 |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)