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元禄15(1702)年12月15日(第306号)

忠臣蔵新聞

忠臣蔵新聞第306号発行!!
再び、元禄時代にタイムスリップ
第306号のテーマは
泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(2)
泉岳寺の和尚、掟を破り酒をふるまう
近松勘六、切腹するからと治療受けず
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
本紙の独占スクープ!!
泉岳寺の酬山和尚の決断
禁酒の寺ではあるが、赤穂浪士は特別である
疲れをとるため酒をふるまうよう命令す
 赤穂浪士は全員で、浅野内匠頭殿のお墓に吉良上野介殿の首を手向けしました。その後、酬山長恩和尚にお目にかかりたいと本堂の客殿に集まりました。
 和尚が赤穂浪士と対面して、「吉良邸討入りについては、さぞかし、本望でしょう」と申されると、大石内蔵助さんが「おっしゃる通り、日ごろの本望これに過ぎるものはありません。お寺に参りましたが、お世話になります」と挨拶されました。
 和尚が「お公儀役人にお届けしましたか」とお尋ねになると、内蔵助さんが「その通りです。大目付の仙石伯耆守様へ吉田忠左衛門と冨森助右衛門の2名を遣わしています」と申されました。
 和尚が「そうであるならば、私たちも寺社奉行にお届けします。それまでの間、まず、皆さん、ゆっくり休息し、何なりと食べなされよ」と申されました。
 とても、いずれもへ挨拶にて、早々供の用意も出来なかったので、中門まで、和尚が歩いてお出でになり、やがて乗り物もやって来たので、中門より乗り物にお乗りになったということです。
 和尚がお出でになる時、玄関の下り口で、「このお寺は禁酒ではあるが、赤穂浪士の方々は格別なので、疲れ(草臥)を止めるために酒を用意して振舞うように」と申されました。さらに、和尚はに「禁酒の寺に酒を入れたことに関しては、後日、その理由を聞かれたならば、私たちは寺社奉行に行って、その理由を釈明する」と申されました。
史料
 一 何れも御廟江首を手向被申候、以後和尚江可懸御目とて各本堂の客殿江集被申候、
 和尚対面にて被申候は、此度之義嘸本望に可被存候と被申候処、内蔵助挨拶仰之通り日頃之本望不過之候、御寺江参り御世話に罷成り候と被申候由、
 扨和尚被申候は、御役人衆江御届候哉と被尋候得は、内蔵助被申は、成程仙石伯耆守様江両人差出し候 吉田忠左衛門、冨森助右衛門 
 和尚被申候は、左候ハヽ我等も御役人衆江届ケに可参候、其内先つ得と何れも休息被為何にても給られ候へ迚何れもへ挨拶にて、早々供之用意出来不申候故中門迄和尚歩行にて被出、追付乗物参り候故中門より乗物ニ乗り被申候由、
 和尚被出候節玄関之下り口にて被申候は、当寺は禁酒ニ候得共今度の面々は格別之義ニ候間何も草臥の止申様ニ酒を調振廻可申候、禁酒の寺へ酒を入後日の子細候ハヽ我等罷出埓明可申候

外科医の松原玄佐さんが泉岳寺に到着
近松勘六さんの治療を申し出る
勘六さん「切腹する身なので」と断る
 和尚が寺社奉行などへお出でになった後、赤穂浪士44人の衆は客殿と衆寮殿に居りました。両所には火鉢などを出していました。
 その頃は、吉良上野介殿の首は包んだまま衆寮殿の仏檀に置いておりました。赤穂浪士の皆さんは、火鉢又は焚火などにあたり、血が付いて汚れた小袖をあぶったりしていました。
 あおれやこれやと前夜の事を快く語り合っておられました。
 この頃、先に呼に行った外科医・松原玄佐さんがやってきて、「近松勘六さんの股の傷を見て治療を致しましょう」と言いましたが、勘六さんは「これ位の傷をみせる程ではない。その上、追っ付け、切腹することになっているので、治療には及ばない」と言って、結局、傷を見せませんでした。勘六さんの傷はと言うと、長さ六七寸、幅は一寸ほどの様でした。
史料
 一 和尚御役人衆江被出候後、四十四人之衆客殿と衆寮江両所に居被申、尤両所江火鉢抔出し候由、 其時分首は包なから衆寮之仏檀に置申候由、皆々火鉢又は焚火抔にあたり血の付よこれたる小袖ヲあふり抔して居被申、
 何角前夜の咄し共被致快く語り居被申候、
 此節先に呼に参り候松原玄佐と申外科参り近松勘六股の疵を見申候得て療治可仕と申候得共、勘六申候は、是程の疵見セ申程之義にて無之、其上追付切腹致候得は不及御療治候迚終に疵見せ不申候由、長サ六七寸はゝ一寸斗の疵ニ見へ申候由

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)

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