元禄15(1702)年12月15日(第307号)
忠臣蔵新聞第307号発行!! 再び、元禄時代にタイムスリップ |
第307号のテーマは 泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(3) 浪士たちに燗酒が振る舞われる 原惣右衛門さんの旧家来が訪問 安井彦右衛門さんの面会拒否 |
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』) |
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元禄15(1702)年12月15日(東京発) |
泉岳寺の僧・快舟さんの独占インタビューを紹介 その後、若い僧の白明さんの会見の予定 |
泉岳寺における赤穂浪士の独占スクープを読んで、色々な方から本社にお便りが届きました。 「いつまで、くだくだ取り上げるのか」という意見もありましたが、「泉岳寺内での赤穂浪士の言動は一番知りたいことなので、一言一句届けて欲しい」という意見も多くありました。 浅野内匠頭さんの切腹が1701年3月14日です。浅野内匠頭さんの家来47人が吉良邸に討ち入り、主君の仇を報じたのが1702年12月14日です。本社では、その間1年10カ月(閏月が1回あり)もの雌伏を考えると、色々な意味で後世に大きな影響を与えると判断し、詳細を伝えることが大切であると決定しました。 ここでは、泉岳寺の僧・快舟さんの独占インタビューを紹介しています。その後、若い僧の白明さんの話もお聞きしており、多面的に、お伝えする予定です。 しばらく、お付き合いください。 |
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禁酒の寺で燗酒がふるまわれる 赤穂浪士は喜んで飲み合う |
私たち泉岳寺の僧が赤穂浪士の方々へ「どんなものでの欲しいものがあれば」と申しますと、赤穂浪士の皆さんは「大変疲れました。温かいお粥さんを頂ければ・・」と申されました。そこで望みの通り粥を出しました。 酬山長恩和尚が「酒を出しなさい」と言われましたが、「禁酒の寺なので如何すべきか」と役人の僧らが協議しました。その結果、「内蔵助さんに一応お尋ねしよう」ということになり、和尚が言われた通り、酒の件について内蔵助さんに聞きました。内蔵助さんは「これはありがたいことです。皆はくたびれておりますので、お酒を頂きたい」と言われましたので、役人の僧は早速酒を取り寄せ、鍋ややかんなどで燗(かん)をして振る舞いました。 赤穂浪士の皆さんは、喜んで、互いに飲み合っていました。 |
一 何れもへ何にても参り候物可進と出家衆申候得は、皆々被申候は、殊之外疲れ申候間あたゝかに粥を御振廻被成候得と被申候得は、何れも望の通りに粥を出し申候、 和尚酒出し候得と申付置候得共禁酒の寺如何可有之哉と役人の僧共寄会評議いたし其内先内蔵助殿江一応尋可申とて和尚申付候通り酒之義如何可仕と尋申候処、内蔵助殿被申候は、是は能こと被御心付、忝存候、皆々草臥居申候間御酒被仰付候得と被申候故、役人之僧得其意早々酒取寄鍋・やくわん抔にてかんを致し振廻申候、 皆々悦ひ互にしゐて呑被申候 |
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ケガをした原惣右衛門さんを昔の家来が訪問 その後、家来は涙を流して、帰って行く |
赤穂浪士の皆は、ホッとして休んでおりましたが、そこへ、原惣右衛門に以前仕えていた者が門まで参り、「惣右衛門さんに是非お会いしたい」とやって来ました。「私は惣右衛門の家来です」と言ったので、出家衆はそのように原惣右衛門さんに伝えました。惣右衛門さんは早速会おうと立ち上がりましたが、前夜、本所吉良屋敷の屋根より飛び降りた時、足をくじいて痛みもはげしかったので、家来に合いに門まで出るまで同僚の肩に寄りかかって門際まで参りました。 家来は門内に入り、門番所にて惣右衛門さんと出会い、色々話したのか、涙を流し、その内、暇乞いして帰って行きました。 |
何れも息を入休居被申候内、原惣右衛門前廉召仕候者門迄参り惣右衛門に何卒逢申候様被成被下候得、私義は惣右衛門家来にて御座候と申候得は、出家衆其段惣右衛門江申達候処、惣右衛門逢可申迚可被立出様子ニ候得共、前夜本所吉良殿屋敷の屋根より飛申候節足をくしき強痛候故、右家来ニ逢候迚門迄被出候事もいつれか傍輩衆の肩にかゝり門際迄被参候処、 右之家来門内江入門番所ニ而惣右衛門江出会何角咄共有之家来落涙いたし暇乞て帰申候 |
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元赤穂藩江戸家老・安井彦右衛門さんが門前に来る 内蔵助さんは面会を拒否する |
赤穂浪士の皆が集まっていた時、元赤穂藩江戸家老・安井彦右衛門さんが泉岳寺の門前にやって来ました。その使いが「彦右衛門さんの使いであることを内蔵助殿に申し上げてくれ」と言うので、その件を出家衆は内蔵助さんにお伝えしました。すると、内蔵助さんは、「その使いの取り次ぎはしないでくれ」と申されました。 |
一 何れも集り被申候節安井彦右衛門より・・寺内江参り彦右衛門使のよしを内蔵助殿江申上呉候得と申候ニ付其段内蔵助江出家衆被申候得は、其使取次被成間敷と被申候、 |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)