home back back

元禄15(1702)年12月15日(第308号)

忠臣蔵新聞

忠臣蔵新聞第308号発行!!
再び、元禄時代にタイムスリップ
第308号のテーマは
泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(4)
上杉家の追っ手かと一時騒然
和尚より食事と酒を振る舞われる
吉良殿の首を酒の肴にする
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
吉田忠左衛門さんら仙石伯耆守さんに自訴
泉岳寺の酬山和尚が寺社奉行に届け出
その後はどうなったのでしょうか?

仙石伯耆守さまが御徒目付の2人がやってくる
「口上書には47人=仙石邸に2人+泉岳寺に45人?」と尋問
泉岳寺には44人、残り1人は「欠落」
2人の使い「討ち入りの義は千万前後のよう」と感心
 仙石伯耆守さまが御徒目付の2人を遣わされました。
 酬山和尚は客殿へ出られ、46人の浪士に「言いたいことがあると仙石伯耆守殿より役人を泉岳寺に派遣されている。お会いなさるようい」と言われた。大石内蔵助さんは「分かりました」と返事されました。
 赤穂浪士が泉岳寺の客殿に勢ぞろいしている所へ、伯耆守さんの2人の使い出てきて座りました。そして「伯耆守が言われるには、『御用の義があるので、伯耆守宅へ全員でお出で下さる様に』」と言われれました。その時、赤穂浪士は頭巾を取りました。大石内蔵助は「伯耆守様が仰せられること畏れ多いことでございます」と浪士全員に言われました。
 そこで、2人の使いが「伯耆守方へ差出した書付(討ち入り口上書)には47人とある。その内伯耆守方に2人がいる。すると、残りは45人がここにおることになるが」と尋ねました。内蔵助は、「おっしゃる通り書付には47人とありますが、1人は欠落しております。夜前、上野介殿宅へ討ちいる時までは居りましたが、その後、見えません」と挨拶されました。しかし、なおも2人の御徒目付は、「何方へ行ったのか」とお尋ねになりました。内蔵助は「何方へ行ったのか分かりません。それ故、書付とは1人不足になり、唯今、ここに44人おります」と答えられました。
 その後、2人の使いは「さてさて、此度の吉良邸討入りの事、千万前後のようで感心致しております。私たちが仙石邸に帰る間、皆さん自由に伯耆方へお出でなされように」と挨拶して、帰って行きました。
史料
一 仙石伯耆守様より御徒目付両人被遣候由
一 和尚客殿江被出四十六人之面々に対面ニ而被申候は被仰渡之趣有之候由ニ而伯耆守殿より御役人衆を被差越候間何も御逢候得と被申候得は内蔵助相心得専候由挨拶被致候
一 各客殿ニ並居候処江右両使出坐伯耆守被申候は、御用之義有之候間伯耆守宅江何れも御越候様ニと被申候、其節皆々頭巾をぬき伯耆守様被仰渡候趣奉畏候と一統ニ被申候、
 扨両使被申候は、伯耆守方江御差出し之書付には四十七人と御坐候、伯耆守方に両人留置候、残而四十五人爰ニ御坐候哉と尋被申候、内蔵助被申候は、仰之通り書付ニハ四十七人と有之候得共壱人は欠落致し候也、夜前上野介殿江参り候迄は居申候得とも其後見へ不申候と挨拶被致候得共両人御徒目付被申候は何方江参り候哉見へ不申候哉と又尋被申候、内蔵助被申候は何方江参り候哉見へ不申候、夫故書付とは壱人不足にて唯今是に四十四人居申候と答被申候、
 其後右両使・・扨々此度之義千万前後之被成方感心申候、拙者共罷帰候間各御勝手次第伯耆方江御越候様致挨拶両入共帰り候

泉岳寺の門前で、大勢の侍が騒がしい
上杉弾正さん(上野介の実子で上杉家の当主)の追っ手では?
内蔵助さん「門を盾に必死になって戦え」と命令
大勢の侍は浪士を引き取りの大名家の家臣だった
 泉岳寺の表門のばんにんが「門外で、侍衆も何やら騒敷している」と注進して来ました。その時、出家衆がその話を内蔵助さんに伝えると、赤穂浪士の全員は「いかにも相心得た」申されました。
 内蔵助は、「表門の騒動とは、きっと、上杉弾正殿(吉良上野介の実子で上杉家の当主)より討手が来たものと思われる。吉良邸の討ち入りで、遠矢を射懸け、矢種が尽きてしまっている。そこで、門内で中門を楯にして一騎討に戦いたい。中門が叶わないならば、門を楯にして一心に戦え」と浪士に命じたようである。その時、浪士の全員は「心得た」と言って、若い浪士は客殿の前広庭で鑓を振り廻し、刀を抜き、草鞋などを履き替え、用意出来たようである。
 その時、掘部安兵衛が「刀のねたば(切れ味がにぶった刃)を付け替えたいので、砥石(といし)を出して頂きたい」と言えば、快舟寮の出家が砥石を出してきました。
 その後、出家衆が内蔵助に「門前の騒動は上杉弾正殿よりの討っ手ではありませんでした。あなた方を預かる大名から派遣されてきた受け取りの人々ではないでしょうか」と伝えると、内蔵助は「分かりました」と返事されました。
史料
一 泉岳寺表門ニ置候附番より申越候は、門外侍衆も見へ何とやらん騒敷候由注進申候、其時出家衆其趣を内蔵助殿江申候得はいかにも相心得候迚何も被申候、
 ・・表門の騒敷と申は定而弾正殿より討手之来り候ものと存候間、先遠矢を射懸ケ矢種尽候ハヽ門内ニ而中門を楯に取て一騎討に働可被申候、中門ニ而及不申候ハヽ門を楯に取り随分働被申候へと内蔵助下知被致候由、其時何れも相心得申候迚若キ衆は客殿の前広庭ニ而鑓を振廻し刀を抜草鞋抔はきかへ用意被申候よし、
 其節掘部安兵衛被申候は、刀のねたばを付申度候間砥を御出し候得と申候得は、快舟寮の出家砥をかし申候、其以後出家衆内蔵助江被申候は、門前之騒敷は弾正殿より之討手にてハ無之、各を預り之御大名衆より被差遣候人数にて候かと被申候へハ内蔵助得其意候由被申候

吉良殿の首を箱にいれました
非時食の後、泉岳寺より酒が振る舞われました
泉岳寺の僧が「酒の肴がありません」と言うと
吉良殿の首を入れた箱を指して、「これほどの肴はありません」
 酬山和尚は44人の衆に非時食(ひじしき、食事時間以外の食事)を振る廻うことを申し出られたようです。内蔵助・惣右衛門さんら主だった衆は客殿にて非時食を食べました。
 その外の衆で誰かが出家へ「吉良上野介殿の首を入れたいので、どんな箱でもいいので、お貸し下され」と申されました。そこで、首を入れる箱に相応しい物がなかったので、泉岳寺へどなたからか贈られた進物用の茶壷の箱がありました。そこで、その箱を出家衆が持って衆寮へ行かれてようでした。
 その時は、浪士のほとんどは食事半ばだったので、お膳を脇へのけて、仏檀に置いていた首を持返り、包より取り出しました。「おのおの方、ご覧なされよ、見納めの吉良殿の首ですぞ」といって、ほとんどが両手に持って見ました。その後、箱の内え「とんと」入れ、その上へ包んだ血に染った小袖を押し込みました。さらに、箱に付いていた「さなだ打」(幅狭く織った絹や木綿の紐)の緒(はし)で「とくと」(しっかり)くくり、その箱を側に置きました。血の付いた手で、ふたたび、箸を取り、食事されたようです。
 「この吉良殿の首を取り扱う人は誰にしましょうか」と我たちが尋ねると、出家衆は「間重次郎が初より首の世話をしている。箱に首を入れたのもきっと重次郎にてあろうかなと思っている。しかし、はっきりとは分からない」と快舟やその外の出家衆も物語りていいました。
 さて、食後、酒を出した所、浪士の皆んなは心よく酒を呑みました。御出家衆が「酒の肴はありませんが、お酒をお飲み下さい」と挨拶されると、浪士の皆々は「何も肴は入りません。これほどの肴はありません」と吉良殿の首が入った箱を指さしては、酒を飲んでいました。
*参考資料:非時とは、僧が食事をとってはならないとされる日中(じつちゅう、正午)から後夜(ごや、午前四時)までの間のことです。非時食とは僧侶が非時の間に食事をすることです。
史料
一 和尚より四十四人の衆江非時を振廻被申候由、内蔵助・惣右衛門其外おもたち候衆は客殿にて非時たべ被申候、其外の衆の内より何れか出家江被申候は、首を入置申度候間何にても箱御かし被成候得と被申候故首之箱に相応の物無之候間泉岳寺へ何方より参り候や進物之茶壷之箱有之候故其箱を出家衆為持衆寮へ被出候由、
 其節は何れも膳半ハの所ニ候故食事半に膳を脇へのけて仏檀に置候首を持返り包より取出し何れも御覧候得、見おさめの首にて候・・とて両手にすへて何れも見、右之箱の内江とんと入其上江包候小袖の血に染たるを押込、箱ニ付たるさなだ打の緒にてとくとくゝり、其箱を側に置血の付たる手にて又箸を取り食事給被申候由、
 此首を取扱候人は誰にて候哉と我等尋候得は出家衆被申候は、間重次郎初より首の世話致し被申候、右之箱江首を入申候も定て重次郎にて可有之哉と被存候、碇(聢)と覚不申候と快舟其外の出家衆も物語被致候、
 扨食の上にて酒出し被申候処、何も心よく酒呑被申候、御出家衆被申候は何ニ而も肴無御坐候得共御酒まいり候得と挨拶被致候得は皆々被申候は何も肴いり不申候、是程之肴は無御坐候と首之入り候箱を指さし酒飲被申候由

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)

index home back back