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元禄15(1702)年12月15日(第309号)

忠臣蔵新聞

忠臣蔵新聞第309号発行!!
再び、元禄時代にタイムスリップ
第309号のテーマは
泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(5)
赤穂浪士は泉岳寺より大目付仙石邸に移動
上野介の首、泉岳寺と万松院とで交渉成立
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
内蔵助は泉岳寺に上野介の首の処置を依頼
内蔵助は鑓と長刀の処置を和尚に聞く
 泉岳寺の酬山和尚は、赤穂浪士の全員と会われ、「皆んなが、ゆっくりと支度して大目付の仙石伯耆守久尚殿へ行けるようにせよ。老人やケガ人もおるので、駕籠の用意も申しつけよ」と出家衆へ言われました。
 赤穂浪士全員が仙石伯耆守殿へ行く用意をされました。あれやこれやとされている内に夜に入ったということです。お互いに「早々、支度せよ」と声を掛け合ったということです。
 泉岳寺より草鞋などをお出しすると、皆んなは履きかえて「支度が出来た」と言うと、再度、酬山和尚は皆と暇乞いをするために会われました。大石内蔵助派、「この度は思いもかけなずお寺にやって来てお世話になりありがたく存じます」となにかと挨拶などされたということです。
 続けて、大石内蔵助は「この吉良上野介の首は和尚様にお預け致しますので、お寺に置いて頂きたい」と申しました。和尚は「分かりました。確かに受け取り置きましょう」
 その後、大石内蔵助は「皆が持参した鑓・長刀はもはや必要なこともありません。夜前、本望を達してお寺まで来る道すがらお城下を通過するので、刀を抜いたまま通過するのは恐れ多く、皆は目印の袖を解いて、鑓の穂先を包んでやって来ました。これより伯耆守様までの道すがら鑓・長刀を持参するのも憚られるので、如何いたしましょうか」と言われた。和尚は「夜中であり、そのまま鑓・長刀を持参するべきである。以後、色々とお咎めのあれば、我らは申し開きを致そう。それゆえ、皆はそのまま持参いたされよ」と返答されました。
 皆の用意も出来て、泉岳寺を出られたのは15日の夜の8時を少し過ぎていたということです。
史料
一 和尚何れもへ逢被申各緩々と支度なされ候へて伯耆守殿江御越可有之候、老人衆・手負の衆も御座候間駕篭の用意も申付候得と出家衆江被申付候、
 扨何れも伯耆守殿江参候用意被致候、何角と被致候内夜に入申候由何も互に被申候は、早々支度仕廻可被申候と被申候由、
 寺より草鞋抔出し被申何れもはきかへ被申皆々支度出来申上にて又和尚何れもへ暇乞ニ逢被申、内蔵助被申候は、此度不慮に御寺江参り御世話に罷成り忝存候、・・何角挨拶等有之候由、
 扨此首は和尚様江預申候間御寺に被差置被申候得と申候、和尚心得候迚請取置被申候、
 其後内蔵助被申候は、何も持参の鑓・長刀最早入申事も無之候、夜前本望達し御寺迄参り候道すから御城下通り候故抜身にて通り候も恐入、面々相印の袖を解キ鑓の身を包持チ参り候、是より伯耆守様迄之道すから右得道具何も持参仕候も憚がましく御坐候、如何可仕哉と被申候得は、和尚返答に夜中と申其侭得道具持参可仕候、以後に何とそ御咎も候ハヽ我等申訳可致候と被申候由、夫故何れも其侭致持参候、
 扨何れも用意出来泉岳寺被出候節十五日の夜五ツ少し過申候由

酬山和尚は寺社奉行の阿部飛騨守正喬へ届け出
酬山和尚は飛騨守邸より大目付仙石伯耆守邸に回る
 44人が泉岳寺を出た後、酬山和尚は寺社奉行の阿部飛騨守正喬様へ参り、「44人の全員が仙石伯耆守久尚へただ今参ったことをお届けいたします」と申されました。阿部飛騨守様の役人衆へ酬山和尚は「私もこれより仙石伯耆守様殿へ届けに参るべきか」と申されると、阿部飛騨守様の役人衆は「いかにもそのようにせよ」と言うので、泉岳寺はその意見を受けて阿部飛騨守殿より直ぐに仙石伯耆守殿へ参られると、46人の衆は4カ所へお預けにて殊のほかゴタゴタしており、「その駕籠は?」、「この乗り物は?」とて騒々しい中、やかましく「伯耆守殿取次へ、泉岳寺からやって来ました」と言っても、伯耆守の取り次ぎの者は「御覧の通り殊の外ゴタゴタしております。少々お待ちくだされ」挨拶されたので、門前にて長いこと待ちました。しかし、埒が明きそうもないので、泉岳寺は再度取次を呼び出し、「長いこと待ったが、未だ取り込みと見へるので、私は帰りますので、その旨、宜しくお頼み申します」と取次に申し置いて、夜の16時に帰って来たということである。
 15日の夜、泉岳寺が大石内蔵助より預けられた上野介殿の首は、夜中、客殿に屏風を立て廻し、出家衆が番をしていたと申しているそうである。
史料
一 四拾四人の衆寺を出候後、和尚阿部飛騨守様江被参四拾四人之面々伯耆守殿江只今被参候段届被申、飛騨守様役人衆江和尚被申候は、拙僧も是より伯耆守殿江届に可参哉と被申候処、役人衆被申候はいかにも可然と被申候故泉岳寺得其意飛騨守殿より直に伯耆守殿江被参候処、四十六人の衆四ケ所江の御預ニ而殊の外取込にて、其駕篭此乗物とて中 やかましく伯耆守殿取次江泉岳寺参候段被申達候得共、取次之者申候は、御覧被成候通り殊の外取込候間少々御待被成候得と致挨拶候之由故、門前ニ而良久敷待被申候得共兎角埓明キ不申候故、泉岳寺又取次を呼出し久敷待候得とも未タ御取込と相見へ申候間拙僧は罷帰候間、・・段宜頼入候由取次に申置夜之七ツ時に帰候由
一 十五日の夜泉岳寺内蔵助預被申候上野介殿之首は夜中客殿に屏風建廻し出家衆番を致し居申候由

酬山和尚は阿部飛騨守に吉良の首の処置を相談
飛騨守邸で、泉岳寺と上野介の菩提寺・万松院が話し合い
酬山和尚は石獅・一呑に吉良の首を返させる
 16日の22時頃、泉岳寺で預かっている吉良上野介の首のことについて阿部飛騨守正喬様へ相談に参ったところ、飛騨守殿は直接にお会いになり、「和尚のこの度の諸事の処し方は残る所なく、ひときわで事である。その点、同役中と噂をしておりました」と仰せられました。その時、酬山和尚は「ありがたく存じます。さて、上野介殿首を内蔵助より預り置いていますが、どのようにいたせばよいか思案しています。そそうがないよう番をしている出家どもは非常に迷惑しております。何とぞ早く片付けたい」と申されると、飛騨守殿は、「将軍より仰せられたことではないのであるが、我ら差図にては上野介の首は吉良左兵衛義周へ送り返すべきであろう。万昌院は上野介の菩提所であるので、直ぐに万昌院の出家もこちらに参であろうから、お会いになりご相談されては如何だろうか」と申されたといういことです。
 泉岳寺の酬山和尚は、「そうのようにしていただければ、さっそく、決着がつき、ありがたく存じます」と言い、万松院と相談しようと座を立って、次の間で、万松院の僧に会って諸事の話し合いをしました。被万松院の僧は「吉良殿の首をお返し頂ければ、先ず、吉良左兵衛殿へ案内致したい」とお互いに挨拶をした上で、飛騨守殿の邸を出て、酬山和尚が帰って来られ、出家中に、「吉良上野介の首の件も決着がついたので、そのように心得へよ。後に、左兵衛殿へお返しする」と申されました。
 酬山和尚は、石獅・一呑という寺僧を呼び、「上野介殿首を左兵衛殿へ送り返したいので、2人を使僧としたい。左兵衛殿までの道筋は、随分と念を入れ、気を付けて持って行ってほしい。左兵衛殿へ参いったならば、門前より案内する取次の者が出てきたら、直ぐに、”首をお渡ししたい。門外にて受け取りたいと取次が申しても、門外ではお渡しすることは絶対にできない。それでも、是非、門外で受け取りたいと言うならば、左兵衛殿の直判を頂ければお渡しすると申せ。たとへ、門内で渡しても、先、受け取り状を受け取るようにせよ」と粗末に扱われないように、特別に、念を入れて申し付けられたということであった。
 首の箱を渋紙で包み、細引でくくり、中へ棒を通し、中間(ちゅうげん)に荷わせ、石獅・一呑を付けて、遣わされました。さて、再度、首をお返しする時に目録がなくてもいいとはいえ、この目録はどのように書いたらいいだろうかと出家衆は色々と相談したようである。
史料
一 十六日四ツ頃泉岳寺首之事ニ付飛騨守様江被参候之処、飛騨守殿御逢被仰候は和尚此度諸事被致方残る処なく一段に存候、其段同役中と噂申候と御申候、其時和尚忝存候、扨上野介殿首内蔵助より預り置何共可致様無御座候、いたし付ぬ番を仕出家共殊の外迷惑仕候、何卒早く片付申度と被申候得は飛騨守殿被申候は、上より被 仰出候事ニ而ハなく候得共我等差図にては右之首左兵衛江送り可被申候、盤松(万昌)院は上野菩提所の由則盤松院之出家も是江参り居候間御逢候へて御申合セ候得と御申候由、 泉岳寺左候へハ早速埓明忝存候、盤松院と可申合とて座を立次の間にて盤松院に逢諸事被申合候処、盤松院被申候は、弥御遣し候ハヽ先達而左兵衛殿江案内可仕候由互に挨拶の上ニ而飛騨守殿御宅を出和尚被帰候而出家中江申候は、首の埓も明き候故左様に心得候へ、後棄(刻)左兵衛殿江可遣と被申
 石獅・一呑と云寺僧を呼ひ和尚被申候は、上野介殿首左兵衛殿江送り候ニ付両僧を使僧に遣し候、左兵衛殿迄之道筋随分入念気を付為持可参候、左兵衛殿江参り候ハヽ門前より致案内取次之者出次第内ニ而首渡し可被申候、門外ニ而受取可申と取次申候共門外ニ而は渡し候事堅無用ニ而候、其上ニも是非門外ニ而受取可申と申候ハ、左兵衛殿直判を取候而渡し可被申候、たとへ門内ニ而渡候とも先請取を取り渡し可申候、■末に被致間敷候とて殊之外入念被申付候由、
 扨首の箱を渋紙ニ而包ミ細引ニ而くゝり中へ棒を通し中間に荷わせ右之両僧付遣し被申候、扨又首を遣し候に目録なくても成る間敷候へとも此目録は如何認可然哉と出家衆相談色ヽ有之

酬山和尚は阿部飛騨守に吉良の首の処置を相談
飛騨守邸で、泉岳寺と上野介の菩提寺・万松院が話し合い
酬山和尚は石獅・一呑に吉良の首を返させる
 今回で、幕府の尋問に対する泉岳寺側の答弁をおわります。
 次回からは、泉岳寺の若い僧である白明の記録を紹介します。
 時間や色々な点で、異なる記録があります。当事者であっても、立場や見方によって違うということも歴史を学ぶ上で重要な事実です。それを超克して、新しい忠臣蔵像を構築したいと思います。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)

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