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元禄15(1702)年12月15日(第311号)

忠臣蔵新聞

305〜309号(泉岳寺の幕府への報告)
310号〜312号(泉岳寺の若い僧の報告)
泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(7)
泉岳寺記録(酒食)白明話録(酒なし)
木村岡右衛門・大高源五らが白明に詩句遺す
赤穂浪士 死を覚悟して僧に回向を依頼
修学旅行で赤穂義士ゆかりの泉岳寺に参拝した有年中生徒
(平2010年6月18日付け赤穂民報報より)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
私の母校である有年中学校の生徒が修学旅行で泉岳寺に参拝
 私の母校である有年中学校の生徒が修学旅行で泉岳寺に参拝したという記事と写真を地元紙が掲載しました。若い感性で、忠臣蔵のもつメッセージを後世に語り継いて欲しいものです。期待しています。

泉岳寺は、粥・茶・茶菓子・風呂で、もてなし
近松勘六の大傷 治療したか、拒否したか
 前回に続いて、今回も白明さんからお話しを聞きました(敬称略)。
 泉岳寺の和尚が「大石内蔵助・主税親子、その他の老人衆は本堂に、若い衆は衆寮(修行する僧の宿舎)で火にあたって、休まれよ」と言われた。 
 先ず粥を出そうということになりました。本堂の世話は役寮の仕事、衆寮の世話は學寮のしごとです。私(白明さんのこと)らも衆寮の方へかゝり給仕などをしました。赤穂浪士の皆さんは全員がお疲れの様で、粥を沢山に食べられました。粥が済んで、茶請(茶の時に出す菓子)を出し、茶を出しました。
 その後、「皆さん、風呂に入られよ」と言うと、赤穂浪士の皆さんは「いや、吉良・上杉家の討っ手が今にも来るかも分からない。風呂に入っているような余裕はない」と言われました。
 他方、本堂の方丈(住職の居室)にいる大石内蔵助らの話の記録はありましたが、今はありません。世間で言う「夜討の次第」と大して変わらないと思う。
 私が居た衆寮でも話し声もなく、赤穂浪士の皆さんは、とりわけ一層、眠って居られました。「武林唯七が皆んなを励まし、眠らせなかった」と言う人いましたが、私たちは見ておりません。
 近松勘六は左の股に大きな傷がありました。近松勘六は「医師を呼んでも傷は見せないので、呼ぶには及ばない」と言っていましたが、医師が来ると、早く見せて療治させました。近松勘六は「この傷は誰かと戦って時のものだ。追いまくると、その者は池へ飛こんだ。刀かざして立ていたのを知らなかったのでず、その刀でちょっと突き切たんだ」と説明しました。
解説1:泉岳寺が提出した記録では、「このお寺は禁酒ではあるが、赤穂浪士の方々は格別なので、疲れ(草臥)を止めるために酒を用意して振舞うように」と和尚が命じたとあります。
 しかし、「白明話録」では粥と茶と茶菓子を出し、風呂を進めたとあります。
解説2:泉岳寺が提出した記録では、近松j勘六は「これ位の傷をみせる程ではない。その上、追っ付け、切腹することになっているので、治療には及ばない」と言って、結局、傷を見せなかったとあります。
 しかし、「白明話録」では、最初は拒否していたが、医師が来ると、早く見せて療治させたとあります。
 いずれ、白明さんが話録を残す意図を紹介します。その時、白明さんの意図が解明されます。ご期待下さい。
史料
扨大石父子其外老人衆は寺におき、若き衆は衆寮へいて火にあたり休まれよとあつた事で、
 大方衆寮へ見えたなり、先粥を出させたなり、寺のは役寮の仕成、衆寮のは學寮の仕成なり、我等も衆寮の方へかゝり給仕等をいたす、何かいづれも勞れにてや、粥をば澤山にたべらるゝ、粥すみ茶請を出し茶を出すと、
 いづれも風呂に入られよと申せしに、いづれも、いや討手只今も來らぬらん、風呂所にてはなしと申さる、
 扨方丈にての咄は皆記録ありしが、此録今は見えぬなり、世にいふ所の夜討の次第にさしてかはりたることなきとおぼゆ、衆寮にては咄もなく、皆殊外眠って居られたなり、
 武林唯七いづれもを励まし眠らせなんだと云こと人いえど。我等は見ざりしなり、
 当近松勘六左りの股に大瘢あり、医師を呼たれども、見せまい、夫に及ばずといひしかども、医師参りたれば迚見せ療治させしなり、此瘢はどれやらと戦ふて、つまり追まくつたれば、其者池へ飛こんだ、其刀かざして立て有たを知ず、・・其刀でふと突切たるとなり、

↑クリック(拡大写真にリンク)
木村貞行の書(『赤穂義士實纂』より)
木村岡右衛門の左の肩に「法名英岳宗後信士」
岡右衛門から「一滴の血痕が付いた即興の和歌」を頂く
 朝飯を出しました。赤穂浪士の皆さんは気持ちよく食べていました。
 私らが給仕をしている時、木村岡右衛門が「そなたはいくつ」と問いました。私は「19歳」と答えました。木村が「どこの出身か」と聞くので、私は「土州(土佐)の出身である」と言いました。
 赤穂浪士40余人の皆さん右の肩に姓名を書いた金紙をつけていました。木村は皆とは別に左の肩にも「法名英岳宗後信士」の六宇を付けていました。そこで、私が「その法名は誰より伝受されたか」聞くと、木村は「播州の蟠渓禅師より受持した」と申しました。
 私は「蟠渓禅師は済家(臨済宗)の尊宿(有徳の長老)で、諸国より蟠渓の元に参禅しています。木村岡右衛門は幡渓と同じ播州の人です。必らず禅門に入る人でしょう」と心に思いました。
 偈(仏の徳・教えをほめたたえる4句=1句×7文字)はなきにあらずと思い、何んぞ書いてもらいたいしとして、咋夜の辞世、今朝の即興を所望しました。木村岡右衛門は、しばらくして、懐紙を取り出しました。即興の和歌を次のように認めました。
 「本意をとげ侍る頃、仙岳禅寺に至りて」と題して(別の説には「侍るを思はず」という説もあります)。
 「思ひきやわが武士の道ならで
 かゝる御法の縁に逢とは
 木村貞行、行年四十五歳、英岳宗俊信士」と書ましたが、右の手の指の傷の血がポタリ落ちました。そこで書替えようとしたので、私らは「その一滴の血痕がひとしお気にいっておりますので、何とぞそれを賜りたい」と申しますた。その結果、一滴の血痕が付いた即興の和歌を頂きました。
解説3:木村岡右衛門は1658年に生まれ1703に亡くなっています。盤珪禅師は1622年に生まれ1693年に亡くなっています。
 赤穂の案内板では、「盤珪禅師から与えられた法名英岳宗後信士を肩に付けて討入りした」とあります。「白明話録」が出典だということが分かります。
 そこで、赤穂のおける2人の接点を調べてみました。
 1639年、盤珪は、17歳のとき、「明徳」の疑問を解くため、臨済宗妙心寺派随鴎寺(赤穂にあった)の雲甫和尚に参禅しました。ここで出家し、永啄という法名を与えられました。
 1641年、盤珪は、「明徳」の疑問が解決せず、4年間の初行脚に出ました。
 1645年、盤珪は、赤穂に帰り、赤穂の北東にある野中村の草庵(後の興福寺)にて昼夜不臥の三昧という激しい苦行に取り組みました。
 1647年、盤珪は、死の覚悟を決めて修行したことで「不生の仏心」という悟りを得ました。
 1657年、盤珪は、牧翁祖牛(雲甫の法嗣)より印可を受けました。
 1658年、木村岡右衛門は、赤穂に誕生しました。
 1659年、妙心寺前版職となり「盤珪」の道号を称しました。
 1661年、盤珪は、臨済宗妙心寺派の根本道場として、姫路の網干地区に龍門寺を開きました。
 1669年、盤珪は、大洲(愛媛)藩主が如法寺を創建し、開山となりました。
 1672年、盤珪は、京都妙心寺の第218世として紫衣を賜わり、開堂式を行ないました。
 1690年、盤珪は、龍門寺で大結制(1300人)をする。
 1693年、盤珪は、龍門寺に帰り、入寂しました(71歳)。
 1702年、木村岡右衛門は、吉良邸に討入りました。
 物心ついた木村岡右衛門が盤珪禅師と接したのは、1690年から1693年の間になります。岡右衛門が32歳から35歳の時で、直接、姫路の網干地区の龍門寺を訪れたことになります。
 残念ながら、岡右衛門が龍門寺を訪れた記録を本紙は入手しておりません。
史料
 扨朝飯出る、いづれも快く食はる、
 我等給仕に出居候うち、木村岡右衛門の、そなたはいくつと問はる、我等答て十九歳と申、いづくの出ぞ、曰土州なりという、
 四十余人の皆さん右の肩に、姓名を書きたる金紙をつけ、木村には別に左の肩に、法名英岳宗俊信士の六字あり、我等問て曰、其法名は誰より傳受に候や、曰、播州の蟠渓禅師より受持す、
 我れ心に思へらく、蟠渓は濟家の尊宿、諸国より参禅する事なら、水村は同州の人、必禅門に入たる人ならん、
 偈なきにあらずと思ひ、何ぞ書てもらゐ度と存じ、昨夜の辞世今朝の即興を所望したるに、しばらくありて懐紙を取出し、即興の和歌、
 本意をとげ侍る頃、仙岳禅寺に至りて、一に侍るを思
 はずと云説有
 思ひきやわが武士の道ならで
 かゝる御法の縁に逢とは
 木村貞行、行年四十五歳、英岳宗俊信士と書しに、右の手の指の瘢の血ふと落たるを、書かへらるべ様なり、我等申に、其一滴の血痕一入の儀に候間、何とぞそれを賜り候へと申す、すなはちこれをうく、

大高源五の書(『赤穂義士實纂』より)
茅野和助に詩を書いてもらう
岡野金右衛門にも詩を書いてもらう
大高源五にも詩を書くてもらう
赤穂浪士の皆んなは、死を覚悟して、回向を頼みました
 次の座に茅野和助がおられました。そこで、私が「あなたにも何かお願いします」と申しますと、懐紙がないので、左右を探しておられたので、私が懐紙を出しました。
 「天地の外はあらじな千種だに
      もとさく野辺に枯るると思へば
  世や命咲野にかかる世や命」
 茅野和介からこのを頂きました。
 この2人(木村・茅野)は北を向いていました。
 東向きに岡野金右衛門、大高源五がおられたので、この2人にも所望しました。岡野金右衛門は、とりわけ一層、辞退されました。そこで、是非にとお願いすると、書いて頂きました。
 上野介殿の首を故主浅野内匠頭の墓前に捧げるとして
 艮熙は「この詞書はこの様であったことを覚えています。そこで再度引用します」と言いました。
 「其の匂い雪のあちらの野梅かな 岡野包秀 号して放水子という」
 その次に、大高氏お願いすると、大高氏もしばらくして書いて頂きました。
 「山を劈(つく)ちからも折れて松の雪 大高源五忠雄、合して子葉という」
 大高氏からこれを頂きました。
 皆んなから後世の回向(読経などにより死者の冥福を祈ること)を頼まれました。
 武林唯七は詩、神崎与五郎は和歌を、外の僧が所望して書いていたので、私もお願いしましたが、最早や、ご飯の用意が出来て、書を頼む状況ではなくなりました。
 赤穂浪士の皆さんは疲れたと見え、殊の外、お眠りになりました。皆んな温和なる人体でした。武林唯七は至って勇ましい様子でした。
解説4:井沢元彦氏らを中心に、大石内蔵助らが泉岳寺に切腹しなかったのは、「切腹が怖かった」とか「討ち入りは就職運動だっと」ち誹謗中傷を重ねています。しかし、白明話録にはそれを否定する
史料が記録されています。こうした事実を知って、発言して欲しいものです。
史料
 次の座に茅野和介居らるヽに、あなたにも何ぞと申たれば、懐紙なくして左右を願らる故に、我懐紙を出す、曰、
 天地の外はあらじな千種だに
     本さく野邊に枯ると思へば
 世や命吹野にかるゝ世や命
茅野和介常成、是を賜はる、
 右二人は北向なり、東向に岡野金右衛門大高源吾居らる、是へも所望せしに、殊外辞退なりしを、是非にと申書くれらる、
 上野介殿の首しを故主の墓前に手向るとて、
 艮熙曰、詞書加様にありたりとをぼゆ、かさねて引きあはすべし、
 其匂ひ雪のあちらの野梅哉 岡野包秀、號放水子
 其次大高氏へ申せしに、是もしばらくありて書玉はる、曰、
 山を劈ちからも折れて松の雪、
 大高源五忠雄、號子葉、三十一、是をうく、
 皆々後世廻向をたのまる、武林唯七詩、神崎与五郎和歌、外の僧所望いたしたるに書やられたるゆゑ、我等も所望せしに、最早飯出來て其義に及ばず、扨いづれもつかれと見え、殊外睡らる、皆温和柔和なる人体なり、武林は至て勇々敷様子なり、

午後4時、食事談、大石内蔵助らが挨拶をしました
午後6時、大石内蔵助らは仙石伯耆守邸へ向け出立しました
 食事が済んだのは、申の上刻(午後4時)頃でした。そこへ御奉行所より召し出されたということで、赤穂浪士の皆さんも出立する用意を始めました。その後、先ず寺へ参られ、衆士(上下の全員)が列座(並んですわる)して方丈へ参りました。内蔵助は、筋道を立てて、しかも丁寧に礼を述べられました。衆士は頓首(土下座のように)してお礼と感謝を申し出られました。最早や、暮六つ時(午後6時)になりました。提灯6張を前中後の3カ所に2個づつ配置しました。駕籠に乗ったのが6人でした。大石父子は一番先頭を歩きました。行列を正し、勇ましい様子でした。泉岳寺の僧全員が見送りしました。
解説5:大石内蔵助らが泉岳寺を出立して、仙石邸に向かったのは、午後6時というのは、ほとんどの史料で確認されています。白明話録でも午後6時と記録しています。
史料
 飯濟(す)たるは申の上刻なり、然して御奉行所より召さるゝ迚、いづれも出らるる用意なり、先寺へまゐられ、衆士列座方丈へ内蔵助段々丁寧に禮を述らる、衆士は頓首して禮謝し出らる、最早暮六つ時なり、提灯燈六張、前中後三所に二つづヽなり、駕籠にのりたるが六人、手負なり、大石父子は一番に歩也、行列を正し勇々しき様子なり、いづれも見送りしなり、

参考資料
『白明話録』(『赤穂義人纂書』第三巻)

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