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元禄15(1702)年12月15日(第312号)

忠臣蔵新聞

305〜309号(泉岳寺の幕府への報告)
310号〜312号(泉岳寺の若い僧の報告)
泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(8)
泉岳寺における義士の一部始終を知る白明の立場
後世を視野に『ハムレット』のホレイショー役
中傷されながら正史を記録する寺坂吉右衛門役
修学旅行で赤穂義士ゆかりの泉岳寺に参拝した有年中生徒
(平2010年6月18日付け赤穂民報報より)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
私の母校である有年中学校の生徒が修学旅行で泉岳寺に参拝
 私の母校である有年中学校の生徒が修学旅行で泉岳寺に参拝したという記事と写真を地元紙が掲載しました。若い感性で、忠臣蔵のもつメッセージを後世に語り継いて欲しいものです。期待しています。

泉岳寺の酬山長恩和尚が公案に「徳劔刃上」
赤穂義士の法名に「劔刃」がついた理由
藪の急な開墾が主君の墓の上に家臣の墓の理由
 元禄16(1703)年2月4日、送葬(遺体を墓所まで送ること)が行われました。亥上刻(午後21時頃)に始り、丑の下刻(午前2時頃)に終りました。先に、細川殿(熊本藩細川綱利)から御預りの分が着きました。それと前後して、他の三家からもやって来ました。これは大名屋敷と泉岳寺との距離の遠近によります。
 泉岳9世・酬山長恩和尚は、仏事にさいして、右徳劔刃上の公安(禅宗で、さとりに導くために修行者に与える問題)を挙げ著しました。そこで、赤穂浪士全員の法名に劔刃の二字が用入られています。
 赤穂浪士のための墓地も土地がありませんでした。そこで、副司が急に思いつき、薮の竹を引抜き、広げました。その結果、主君の浅野殿の墓が下の方にあり、家臣の赤穂浪士の墓が主君より少し上の方にあるのです。『和漢三才図会』の図は違っています。勿論、土葬です。墓表は台雲が書いています。台雲は泉岳8世和尚の弟子です。
史料
 元禄十六癸未年二月四日送葬、亥上刻に始り、丑の下刻に終る、先に細川殿御預の分至る、此先後は四家泉岳寺へ遠近のちがいある故也、
 泉岳九世酬山長恩和尚秉矩の彿事に、右徳劔刃上の公安を擧著す、この故に衆士の法名ことごとく劔刃の二字を用ゆ、
 墓地も地がなくて、副司が急に存じ付、薮を引除け急にひろめたなり、夫で浅野殿のは下の方也、それで少し上の方也、和漢三才図会の図は違へり、勿論土葬也、墓表は出羽の台雲が書たるなり、台雲は泉岳八世和尚の弟子なり、

上野介の首を舟で泉岳寺へはあり得ない
吉良邸の番人が「吉良上野介の首」と確認
 上野介殿の首を舟で泉岳寺に運んだということはありません。
 古老の言い伝えを、月海は「上野介殿の首は白小袖の袖に包み、鎗に結び付けて泉岳寺の持参した」と言っています。
 寺坂吉右衛門の記録には、「炭部屋らしい物置の内で、間十次郎が鎗で一突きしました。この時、死んだのは上野介殿かも知れないと、背中の傷を確認すると、確かに見えました。そこで、間十次郎は、その首を、吉良上野介が着ていた白小袖に包み、裏門の内側へ持って行き、討ち入りの時、案内人にと捕まえていた足軽に見せました。すると、足軽は「間違いなく上野介である」と言ったので、討ち留めたことを声を上げて知らせました。全員が裏門に集まり、人数を確認して、吉良邸を退散致しました」あります。
史料
 上野介殿首舟にて廻せしこと、無こと也、
 古老傳云、月海曰、上野介殿の首白小袖の袖に包、鎗結付持來云々.
 寺坂氏紀録曰、炭部屋と相見へ候物置の内、十次郎一鎗突申候處、此死人上野介殿にてもこれあるべ
きかと、背の疵相改る處、慥に相見候に付、十次郎右の白小袖に包、裏門の内へ出し、兼而案内として捕へ置候足軽に見せ申候處、疑もなき上野介と申候故、討留候事声を揚げ、惣人数裏門に集り、人数相改退散云々・・

木村貞行の書(『赤穂義士實纂』より)
内蔵助らが墓前に報告中、和尚らの「諷経」はデタラメ
「吉良上野介の生首を仏壇に供えた」こともあり得ない
「衆徒が棒を持ち、討つ手を防ぐ用意をした」こともない
 大石内蔵助らは、吉良上野介を討つ迄はよく考えていました。しかし、討ち取った後は、その時その時の状況い合わせて対応するように見えました。さきのさき迄は、考えているようには見えませんでした。
 大石内蔵助らが主君の浅野内匠頭の墓に、吉良上野介の首を手向けて拝んでいる時に、泉岳寺の和尚が民衆と一緒に諷経(声を出して経を読むこと)したということは、根も葉もないデタラメです。それまでは分からない。というのも、大石らは、寺に連絡もせず、すっと墓へ行ったからです。たとい知ったとしても、すぐに諷経をするということなないぞ
 上野介殿の首のことも、『忠誠後鑑録』には、墓前に報告後、仏壇に供えたとなっているが、そのようなことはない。惣じて禅刹大寺(泉岳寺は曹洞宗)の仏壇は、正面本尊の前に今上皇帝火徳辰君等の牌、ならびに大麻御祓等を安置する天下の御祈祷所です。このような潔斎清浄の檀上に、生首を置くということはあり得ません。
 吉良上野介の首は、12月15日、義士が墓前に手向た後、庫裏より重箱の外箱を取よせ、上野介の昔を納め、終日、衆寮に保管していました。次の晩、泉岳寺の僧二人を使とし、吉良左兵衛の館に送り返しました。使僧1人は一呑.もう1人は石獅といいます。
 寺中が非常に騒動したということもありません。50〜60人の飯などはいつも用意しており、特に大石内蔵助らは心安く度々会っています。泉岳寺の衆徒が鉢巻をして、棒を持ち、討つ手を防ぐ用意をしたということもありません。其日、女が義士の中にまじって來たということもありません。矢頭右街門七が兒扈従(子どもの従者)の美少年だったので、勘違いしたのであろう。
参考資料1:『忠誠後鑑録』は、赤穂浪士切腹の6年後、津山藩士小川恒充忠右衛門が著した。
参考資料2:白明は、この史料で「義士」という用語を使用しています。討入り後の12月15日、世間は犯罪者としての赤穂浪士、義士としての赤穂浪士に判断がぶれていました。実は、白明の話は討入りの50年後の記録だったのです。
史料
 大石以下皆々敵を討迄の念々なり、討て後は段々處置する様に見えて、さきのさき迄はかりたる様子には見へざるなり、
 墓へ首手向禮拝のうちに、泉岳寺の和尚大衆をひき諷経に出しといふ事、あとかたもなき事なり、夫までは何やらしれぬなり、寺へ申さずすらすら墓へいたなり、たどい知たれば迚、直に諷経に出る様な事體でないぞ、
 上野介殿首のことも、後鑑録の様にてはなし、不知案内の説なら、いかんぞなれば、惣じて禅刹大寺の彿檀は、正面本尊の前に今上皇帝火徳辰君等の牌、并に大麻御祓等を安置し奉る、天下の御祈祷所也、かくのごとき潔斎清浄の檀上に、何の理を以て汚穢不浄の生首を置んや、文盲しごくの説也、
 かの首のこと、其日義士墓前手向の後、庫裏より重箱の外箱を取よせ、其昔を納め、終日衆寮に在しなり、其翌晩僧二人を使とし、吉良左兵衛の館に送らしむ、使僧一人は一呑.武州の人、後同州用田村壽昌寺に住、一人は石獅、若州の人、後帰国す、
 寺中ことの外騒動したることもなきことなり、五六十人の飯などは常にすることなり、殊に大石以下いづれも心安く度々逢たる人なり、泉岳寺の衆徒鉢巻で棒を持討手防ぎの用意に出たといふも無きことなり、其日女が義士の中にまじはり來りといふも無き事なり、矢頭右街門七、兒扈従にて美少年なり、是を取違へたるなるべし、

大高源五の書(『赤穂義士實纂』より)
「思ひきやわが武士の道」は大高源吾の歌ではない
「武林唯七の母が自殺した」も間違いである
 「思ひきやわが武士の道ならで かゝる御法の縁に逢とは」の歌を大高源吾詠んだというのは誤りです。この歌は、泉岳寺で木村岡右衛門に対して、私たちがお願いして即興で書いてくれたものです。
 武林只七の母が自殺したということも僻言(間違ったこと)です。私たちと同学の僧の求めに武林只七が書いた詩「題末期述取捨義云々」を見ると、双親臥疾故郷在とあります。自筆の詩に、「両親は病気で臥せっているが、故郷にいます」とあり、武林の母は自殺してはいません。
史料
 思ひきやわが武士の歌を大高源吾よめるという、誤りなり、此歌泉岳寺にて木村岡右衛門え我等所望しての即興也、
 武林只七が母自殺せるということもひが言也、我等が同學の僧武林が詩を書もらゐしを見るに、
 題末期述取捨義云々
 三十年來一夢中、捨身取義夢尚同、
 双親臥疾故郷在、取義捨恩夢共空、
 双親を老臣と作れるもあれど、自筆の詩に双親とあれば、両親故郷に恙なきこと知るべし、母自殺せるにはあらじ、

「義士葬後3日間雷雨や震電」もあり得ない
白明(月海)は1701年〜1718年まで泉岳寺で修業
泉岳寺における義士の一部始終を知る白海は「語り部」の役
 義士葬の後3日間、雷雨や震電(かみなりといなずま)があったというのも、根拠がありません。
 先ず、義士を葬り、合山の大衆がそれぞれの學寮に帰ったのは、既に暁更(夜明け方)になっていました。
 翌2月5日の早朝、庫裏から人夫を出し、昨夜、切り捨てた竹木を他所へ移しました。終日(朝から晩まで)、土を運んだり、石をのけたり、地形を平にしました。最後に、墓所を掃除して、香花を備てました、
 その翌6日、石切を呼んで、石塔を造営しました。ほどなく完成しました。かくの如き作事の間、一日も蓑笠の入用なし、天気尤快日なり、但数日の中すこしく夜雨を催せしこともあれども、大雨なし

 月海和尚の以上の話は、2度にわたって聞き、その夜に記録しました。後に小録も送られてきて、参照しながら、整合しました。
 月海は、土佐国の土佐郡森郷で生まれました。月海は、元緑15(1701)年春、19歳の時、江戸に出ました。
 月海は、享保3(1718)年春、土佐に帰国しました。
 この話の時は、宝暦9(1759)年4月で、月海は72歳になっていました。月海は、宿毛郷南泉山東福寺の主で、字を白明といいます.
参考資料3:白明から話を聞いて『白明話録』としてまとめたのが、戸部良■(ミ+熙)です。
参考資料4:72歳の白明は、赤穂義士が切腹して56年後のこの時期に、この体験談をした理由はどこにあるのでしょうか。
 土佐に居る白明の所に、義士に関する様々な巷説が飛び込んできました。泉岳寺における義士の一部始終を知る者として、その真贋を後世に伝える『ハムレット』のホレイショー役(語り部)になろうとしたのでしょう。
史料
 義士葬の後三日雷雨震電というも、跡もかたも無きごとなり、先義士葬り、合山の大衆各學寮へ帰りしは、既に暁更なり、
 翌五日の早朝、庫裏より人夫を遣はし、昨夜載捨し竹木を他所へ移し、終日土を運び石をのけ、地形を平にし墓所を掃除し香花を備ふ、
 其翌六日、石切を呼石塔を造営せしめ、終に多日ならずしてこれを成す、かくの如き作事の間、一日も蓑笠の入用なし、天気尤快日なり、但数日の中すこしく夜雨を催せしこともあれども、大雨なし

 右月海和尚の話、両次に之を聞き、某夜これを録す、後小録も来り、引合せ次第をなせり、月海は本州土佐郡森郷の産、元緑十五年壬午春、十九歳にして土州を発し江戸にいたり、享保三年戊戊春、越前を歴て帰国、前後十七年の遍参なり、話の年は宝暦九年乙亥年四月七十二歳の時なり、宿毛郷南泉山東福寺に主たり、前永平東福六世、名月海、字白明.
 宝暦十二年辛巳五月   戸 部 良 ■

今回で『白明話録』を終わります
次回からは『江赤見聞録』です

参考資料
『白明話録』(『赤穂義人纂書』第三巻)

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