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元禄15(1702)年12月15日(第313号)

忠臣蔵新聞

305〜309号(泉岳寺の幕府への報告)
310号〜312号(泉岳寺の若い僧の報告)
313号からは『江赤見聞録』です
泉岳寺に引き上げた赤穂浪士(9)
『江赤見聞録』の作者は落合与左衛門
与左衛門はアグリ姫(後の瑤泉院)付家老
吉良邸引き上げ5時、泉岳寺着8時を証言
泉岳寺(挿絵:寺田幸さん)

 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
上野介の首を墓前に供え、その後切腹を申し合わせ
赤穂浪士は、出火を恐れて吉良邸に引き返す
 この上は、泉岳寺へ引き揚げ、吉良上野介の首を主君の墓前に供え、その後、全員で切腹しようと申し合わせました。
 上野介殿の首は、小袖の袖に包み、長刀(なぎなた=薙刀)の柄にくくリつけ、無縁寺辺で休息を取ることにした。その間に上杉家より討っ手やってくるので、喜んで、勝負を致そうと‥‥寅の後刻(午前5時前ごろ)、吉良邸を引き揚げました。
 しかし、引き揚げた後。吉良邸で出火などがあっては焼討ちの後難(後世の非難)になってはどうかということで、みんなで吉良邸に立ち帰り、屋敷中に散らばって、松明などの火の用心に気を付け、それから赤穂浪士の一同は無縁寺(回向院)まで引き揚げました。
 追っ手らしい者は1人も来ず、回向院の中は、静まり返って音もしませんでした。
史料
 此上は泉岳寺へ罷越、彼首御廟所え奉備、其後何も切腹可仕と申合
 吉良殿首を小袖の袖に包、長刀之柄にくヽり付、無縁寺編にて休息可申候、其内上杉家より討手可参候間、快勝負可致と、寅之後刻屋敷は引取申候、
 然處跡にて出火等有之候得は焼討之後難如何と、又何も立帰、屋敷中に打散り候松明其外火用心等見繕、‥‥夫より一同に無縁寺迄引取申候、追手らしきもの一人も不相見、屋敷中静り返って音も不仕候、

回向院で上杉家の追っ手を待つが、入山を拒否される
両国橋東詰で待つも、上杉家の追っ手の気配もなし
 無縁寺(回向院)に行き、門をたたいて、門番を叩き起しました。門番に「寺内に打ち入り、休息したい」と住持に伝えたところ、住寺がやって来て、「寺法には、旦那(檀家)と亡者(死人)のほかは暮六時より明六つ(日の入りから日の出まで)までは通さない事になっている。他人の出入りは停止になっているので、どこへで立ち退いて頂きたい」と返答しました。
 再び申し入れましたが、それもかなわず断られました。そこでしかたなく、両国橋詰めまで行って、全員が屯(たむろ)して、上杉家の討っ手を待ました。討っ手の気配もなく、程なく夜も明けてきました。
史料
 無縁寺に罷越、門を叩おこし、門番人を以右之段申述、寺内え打入候て休息申度旨申達候處、住寺え可申分由にて、其後罷出、住寺申候は、寺法にて、旦那亡者之外暮六時より明六つ迄不通に他人出入停止にて御座候間.何方へも御立退可被成旨住寺より返答にて候、
 再往申込候へ共、不叶段断故、任其儘両國橋迄罷越、何も屯仕、上杉家よりの討手を相待居申候、何之様子も無之、夜も無程明け候也、

間十次郎と武林唯七が一番槍の口喧嘩をする
大石内蔵助は、墓前での一番焼香に間十次郎を指名する
 無縁寺(回向院)を引き揚げるとき、間十次郎は、吉良上野介の首を揚げたことを大げさに言う。そこで、武林唯七は、「私が突いて倒れた死人の首を取ることはたやすいことだ。外の面々に向って、この様の事は後日に批判にもなることなので言っておく」と言いました。
 武林唯七が突き留めたといっても、間十次郎が首を討ち落としました。
 その後、泉岳寺へ引き揚げ、吉良上野介の首を主君の墓前に備えました。赤穂浪士の面々が焼香をする時、大石内蔵助はどう思ったのか、間十次郎を一番に呼出し、焼香をさせました。二番に内蔵助が焼香をしました。その後は格式に従い焼香を行いました。
史料
 無縁寺引取之時、間十次郎上野介殿之頭を揚たるをいかめしげに云けるを、武林唯七、我突臥し死人之首取たるは差もなき事也と、外之面々へ向て、ケ様の事は後日に批判も有事なれば申置候也、
 ‥‥是唯七突留といへども、十次郎首を討得たる也、
 其後泉岳寺え引取、首を手向、各焼香之時、内蔵助如何思ひけん、十次郎を一番に呼出し焼香仕せ、二番に内蔵助、扨平生勤之格式に段々焼香仕候なり、

大高源五の書(『赤穂義士實纂』より)
「泉岳寺の道筋は、隅田川南下→新大橋(今の永代橋)、
木挽町→汐留橋→松平陸奥守様御屋敷前→鉄砲洲旧赤穂藩上屋敷
 泉岳寺への道筋は、隅田川沿いを南下して新大橋(今の永代橋)を渡り、木挽町より汐留橋へ出て、松平陸奥守様の御屋敷前を通り、鉄砲洲の旧赤穂藩上屋敷前を通り、芝の泉岳寺へ引き揚げました。
史料
 道筋、新大橋を渡り、木挽町より塩留橋え出、松平陸奥守様御屋敷前、鉄砲洲古内匠頭様御屋敷前より泉岳寺へ引取候也.

午前7時すぎ、吉田忠左衛門と富森助右衛門が自訴
相手は愛宕下の大目付仙石伯耆守
「仲間は今頃泉岳寺に引き揚げている」と
 12月15日の朝六つ半過ぎ(午前7時過ぎ)、無縁寺(回向院)より新橋辺であろうか、‥‥直に吉田忠左衛門と富森助右衛門の2人は、愛宕下の1800石・大目付仙石伯耆守久尚屋敷(今の港区虎ノ門2丁目)へ行き、「御注進(事件の内容を書き記して上申する)の者です」と言ったので、直ぐに屋敷内に入れました。
 吉田と冨森の2人は内玄関に参り、案内人に取り次ぎを頼みました。そこで、取次の者が出て来て、障子を開けて見ると、異形の恰好をしていましt。「只今、御案内はお2人にでしょうか」と聞きました。その時、2人は名前を名乗り、「私たちは、浅野内匠頭家来の浪人です。かねてご存じの通り、吉良上野介殿は亡主内匠頭の敵なので、昨夜、上野介殿宅へ押しかけ、本望を遂げました。すなわち、上野介殿の御首は、私たちの仲間が持参し、唯今、泉岳寺へ引き取っています。以上のことを報告申するために参りました。何分にもよろしくお指図をお願いいたします。もし、お尋ねの事があれば、私たちの仲間をただ今こちらへ召し寄せて頂きたい。以上の為、2人が参りました。お玄関へ差し出しために参上したく思いましたが、公用のために通るお玄関なので憚り、ここまで参りました。私たちの仲間の書き付けも差し上げます」と言いました。2人とも必死の覚悟で、持参した書置を差し出しました。
史料
 十二月十五日之朝六ツ半時過、無縁寺より新橋邊ならん、途中よりと書付に有之、直に吉田忠左衛門富森助右衛門両人、大目附仙石伯耆守殿久尚 千八百石、あたご下、御宅江罷越、御注進之者と申、則門内へ入れ申候、右両人内玄関へ参、案内にて御取次頼度と申候付、取次之者罷出、障子を明ケ見候得ば、両人異形之體に相見申候、只今御案内は御両人にて候哉と承候、其時両人名字を名乗、拙者共は浅野内匠頭家来浪人にて御座候、兼て御存之通、吉良上野介殿は亡主内匠頭敵にて御座候間、上野介殿御宅江昨夜推参仕、遂本望、則上野介殿御首一味之者共持参仕、唯今芝泉岳寺江引取申候、此旨注進可申上と参上仕候、何分にも宜御差図奉願候、若御尋之儀御座候はゞ、一味之者共只今江可被召寄候、依之両人罷越候、御玄関江差付参上可仕候得共、御公用にて御通り候御玄関故憚入、是迄参上仕、右一味之書付も差上候由申候、何も必死之覚悟故、書置有之持参仕差上る、

今回から『江赤見聞録』です
次回も『江赤見聞録』です

参考資料
『白明話録』(『赤穂義人纂書』第三巻)

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