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平成22(2010)年11月16日(第314号)

忠臣蔵新聞

臨 時 増 刊 号
文化協会の役員さんの前で講演
新視点━背景に武断派と文治派の葛藤(1/4)
(1)武断派(内匠頭)と文治派(上野介)
講演のタイトルと内容

 平成22(2010)年11月17日(赤穂発)
文化協会の総会で忠臣蔵の講演
新視点(武断派と文治派の葛藤)
 2010年10月に西播磨文化協会から電話がありました。「11月16日に総会があります。その時に忠臣蔵の講演をしてもらえないだろうか」という内容でした。
 文化協会というと教育委員会と共に社会福祉の推進と文化芸術の向上発展を両軸に活動を展開している公益法人です。
 私が委嘱を受けているある市の文化財保護審議委員会の会長は文化協会の会長です。
 とても緊張すると共に今後の文化財行政に対する私の方向性(紙データのデジタル化)を訴える機会でもあると考え、快諾いたしました。
 この時、「参加者が”へーっ”と思えるような内容の話をお願いしたい」との注文もありました。

 今までは、「浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ」とか「大野九郎兵衛は敵前逃亡した」とか「堀部安兵衛はケンカ安で恰好よい」とか単純化されて映画化されたり小説化されたりしています。
 今回は、新しい視点で、整理してみました。

山鹿素行の武士道を引き継ぐ武断派の浅野内匠頭
幕府の文治主義政策を引き継ぐ吉良上野介
武士道とは 声かけられれば応戦するが常道
武士道とは 恥をそそぐのが常道
長安雅山筆「殿中刃傷の図」(赤穂市立歴史博物館蔵)

 慶長9(1604)年、徳川家康は、「武士の教養と貴族の格式を身につけた乳母」を募集しました。そして、竹千代(後の徳川家光)の乳母としてお福(後の春日局)を採用しました。
 慶長13(1608)年12月、徳川家康は、関白二条康道と相談し、吉良義弥(上野介の祖父)を高家(幕府の礼式を司る職)に採用しました。その後、吉良義弥は従四位上を加冠されました。

 元和元(1615)年、徳川家康は金地院崇伝に命じて起草し、将軍・徳川秀忠の名で武家諸法度(元和令)を発布しました。
史料
 一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。

 寛永12(1635)年、林羅山に起草させて、将軍・徳川家光の名で武家諸法度(寛永令)を発布しました。
 それ以外の規定には、参勤交代の制度化、500石以上の大船の建造禁止などがあります。
史料
 一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。

 寛文3(1663)年、吉良上野介(23歳)は霊元天皇践祚(即位)の賀使として上洛し、その功により従四位上を加冠されました。
 延宝3(1675)年、浅野采女正長友の死去により、浅野内匠頭(9歳)が初めて4代将軍徳川家綱に御目見得しました。
 延宝8(1680)年、徳川綱吉(35歳)が5代将軍となり、浅野長矩(14歳)は従五位下を加冠されました。

 天和3(1683)年、将軍・徳川綱吉の名で武家諸法度(天和令)を発布しました。
 元和令も寛永令も「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」でしたが、徳川綱吉の天和令になって初めて「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事」と「忠孝」「礼儀」が強調されました。
 それ以外の規定には、殉死の禁止と末期養子の禁緩和が明文化されました。
 これが武断派から文治派へ転換した史料です。
史料
 一、文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事。
 一、養子は同姓相応の者を撰び、若之無きにおゐては、由緒を正し、存生の内言上致すべし。五拾以上十七以下の輩末期に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし。縦、実子と雖も筋目違いたる儀、之を立つべからざる事。
  附、殉死の儀、弥、制禁せしむる事。

貞享元(1684)年、浅野内匠頭(19歳)は、弟・浅野大学長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出して、山鹿流兵学を学んでいます。
 将軍・徳川綱吉が文治派に政策を転換したにも関わらず、赤穂藩主・浅野内匠頭は「言動に命を懸ける」武士道の祖・山鹿素行に弟子入りしています。

 宝永7(1710)年、新井白石に起草させて、将軍・徳川家宣の名で武家諸法度(宝永令)を発布しました。
 文治政治が更に進められています。
 これ以外では、生類憐れみの令が廃止されています。
史料
 一、文武の道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事。


赤穂城に天守閣がないのは、赤穂浅野家が尊王論者?
討ち入りに新しい視点を検証する
(1)京都御所の造営は赤穂一藩のみ?
(2)後西天皇の譲位と吉良父子の活躍時代は一致
(3)最初の勅使饗応役でなく、2度目に刃傷?
赤穂城天守台(写真提供:有賀泰三氏)
 『元禄快挙別禄』は、吉良が皇位継承問題に介入したため、尊皇家・山鹿素行の門下である浅野長矩が怒ったという話を紹介しています。
 最近、山鹿素行研究者のA氏の講演を聞く機会がありました。その内容は以下の通りです。
 徳川幕府はさまざまな朝延工作をした。後水尾天皇と和子中宮(将軍秀忠の娘)との間に生まれた親王は早く亡くなり、内親王が1000年ぐらい通り越して、女帝[明正天皇]となる。
 しかし、後水尾天皇には、親王がたくさんおり、明正天皇の後は後光明天皇、その後は後西天皇が天皇の位に就く。
 後西天皇の時、幕府は、吉良義冬とその子・上野介に朝廷工作を行わせた。
 その頃、伊勢神宮が焼け、御所が焼け、江戸が火事になった。それを帝徳つまり天皇の徳が足らないという理由で後西天皇を退位にさせました。そしてわずか十歳の霊元天皇を即位させた。その功績によって吉良上野介は従四位の位をもらう。そういう不敬不遜なことを吉良上野介は自ら行った。
 そしてもう一つ大事なことは、浅野長直公の時代に赤穂城の建設が進んでいた。もう一歩で天守閣ができる予定だったのです。ところが御所が炎上したために、幕府の命によって御所の修築を命ぜられました。そのために、一旦、天守閣を造るのをやめて、わずか五万三千石の赤穂・浅野藩が懸命になって御所を造営した。加賀百万石ではない。
 それを抜きにして赤穂事件を語ったならば、単なる主君の仇討ちになる。日本の国の中心である皇室を守るための運動が、赤穂事件の大きな原点になっている。命を捨てて日本の皇室を守ったこの赤穂義挙に対して、心から賛嘆の気持ちを持つがゆえに、明治維新の志士たちはことごとく赤穂義士に敬愛の情を示したのである。

 私の赤穂義士の定義と、山鹿素行研究者のA氏の赤穂義士の定義は大きく違っています。これが史実なら、私もこの要素を付けくわえたいと思い、検証することにしました。
 寛永18(1641)年、吉良上野介が誕生しました。
 承応3(1654)年、後西天皇が即位しました。父は後水尾天皇、母は藤原隆子です。後光明天皇が亡くなった時、実弟識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎとしての役割でした(ウイキぺディア)。
 寛文元(1661)年、京都御所が炎上しました。赤穂城が完成しました。
感想1:山鹿素行研究者のA氏は、「わずか五万三千石の赤穂・浅野藩が懸命になって御所を造営した。加賀百万石ではない」としていますが、これは事実ではありません
 寛文3(1663)年、後西天皇は、10歳に成長した識仁親王(霊元天皇)に譲位したとあります(ウイキぺディア)。
(108) 後水尾天皇 (109) 明正天皇
(110) 後光明天皇
(111) 後西天皇
(112) 霊元天皇 (113) 東山天皇 (114) 中御門天皇
 寛文7(1667)年、浅野内匠頭長矩が江戸藩邸で生まれました。吉良上野介はその時27歳で、大石内蔵助は9歳でした。
 寛文8(1668)年3月、浅野長直(59歳。内匠頭の祖父)が勅使饗応役を拝命しています。
 3月、吉良義冬(吉良上野介の父)が亡くなり、吉良上野介が家督を相続しました。
感想2:吉良家の圧力で、後西天皇が譲位して、霊元天皇が即位したことが事実だとすると、この時の赤穂浅野家の当主は浅野長直です。勅使饗応役を任命されたのは、不敬不遜を体験した浅野長直です。どうして、この時、刃傷に及ばなかったのでしょうか
 寛文12(1672)年、浅野長直(63歳。内匠頭の祖父)が亡くなりました。この時、内匠頭は6歳でした。
感想3:後西天皇の譲位と吉良上野介父子が活躍した時代は一致しています。
 延宝3(1675)年、浅野長友(33歳。内匠頭の父)が亡くなりました。浅野内匠頭(9歳)は、4代将軍徳川家綱に御目見得を許されて、赤穂の家督を認められましました。
感想4:9歳の浅野内匠頭に、生まれる7年前の事実を理解できた可能性はあります。
 天和3(1683)年、浅野内匠頭(17歳)は、霊元天皇の勅使として花山院定誠(正二位内大臣)・千種有能(正二位権大納言)の饗応役を拝命しています。この時の勅使饗応指南役は高家・吉良上野介でした。
感想5:山鹿素行研究者のA氏は「命を捨てて日本の皇室を守ったこの赤穂義挙」としていますが、なぜこの時に刃傷に及ばなかったのでしょうか
 元禄14(1701)年、浅野内匠頭は、東山天皇の勅使として柳原資廉・高野保春の勅使饗応役を拝命しています。この時の勅使饗応指南役は高家・吉良上野介でした。
感想6:山鹿素行研究者のA氏は「命を捨てて日本の皇室を守ったこの赤穂義挙」としていますが、なぜこの時に「40年前の不敬に対して皇室を守ろう」としたたのでしょうか

「誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候」
内匠頭が上野介に言った「この間の遺恨」を解釈する
「この間」は「ここしばらくの間」という意味(山本博文氏)
「この間」を「以前(寛文頃)の遺恨」と解釈可能か?
 浅野内匠頭が吉良上野介に切り付けました。内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛の記録(『梶川氏日記』)には「誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候」(誰かが吉良殿の背後より「この間の恨み覚えているか」と声を懸けて切りつけました)とあります。

 内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
 その時の様子を描いた『梶川氏日記』があります。
史料
 其節内匠殿被申候は上野介事此間中意趣有之候故殿中と申今日の事旁恐入候得共不及申是非打果候由の事を、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返■被申候(その時、内匠殿が言われるのは、「上野介の事については、ここしばらくの間意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされれていました。)

 『梶川氏日記』には、「此間の遣恨」「此間中意趣」により、「殿中と申今日の事」と分かっていたが、「是非打果候由」があったという表現があります。
 つまり、第一次史料によると、「内匠頭は、殿中ということも勅使接待日ということも分かったいたが、この間から受けた耐えがたい屈辱を晴らすため、上野介を打ち果たす必要があった」ということが理解できます。ここでは、東大史料編纂所教授の山本博文氏の解釈を採用しました。
 どう考えても、寛文時代に起きた吉良親子による皇位継承のことを指しているとは思えません。
 如何でしょうか。

「浅野内匠家来口上」には尊王の一語もなし
大高源吾・堀部安兵衛の書状でも尊王の語未見
浅野内匠家来口上

 大石内蔵助らは、吉良邸に討ち入るに際して、討ち入り趣意書ともいうべき「浅野内匠家来口上」を吉良邸に立てたり、大目付の仙石伯耆守に提出しています。
感想7:最も大石らの討ち入り本心を知る根本史料です。そこには「討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍」(主君に対して恥をそそぐ)とあります。
 大高源吾や堀部安兵衛の書状にも「主君の恥をそそぐ」とありますが、山鹿素行研究者のA氏が指摘する「命を捨てて日本の皇室を守ったこの赤穂義挙」は未見です。
 そういう史料があれば、ご教示ねがいます。
史料
 浅野内匠家来口上
 伝奏御馳走之儀付吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、於 御殿中当座難遁儀御座候歟及刃場(傷)候、
 不弁時節場所働無調法至極付切腹被 仰付領地赤穂城被 召上候儀家来共迄畏入奉存、
 請 上使御下知城地指上家中早速離散仕候、
 右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之上野介殿討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍仕合御座候、

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