平成22(2010)年11月16日(第315号)
臨 時 増 刊 号 文化協会の役員さんの前で講演 |
新視点━背景に武断派と文治派の葛藤(2/4) (1)武断派(大石内蔵助)と文治派(大野九郎兵衛) |
講演のタイトルと内容 |
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平成22(2010)年11月17日(赤穂発) | |||||||||||||||||||||||||||||||
「敵前逃亡」「不忠柳」と非難される大野九郎兵衛 「経済官僚」(文治派)の視点で大野九郎兵衛を見直す | |||||||||||||||||||||||||||||||
2010年10月に西播磨文化協会から電話がありました。「11月16日に総会があります。その時に忠臣蔵の講演をしてもらえないだろうか」という内容でした。 文化協会というと教育委員会と共に社会福祉の推進と文化芸術の向上発展を両軸に活動を展開している公益法人です。 私が委嘱を受けているある市の文化財保護審議委員会の会長は文化協会の会長です。 とても緊張すると共に今後の文化財行政に対する私の方向性(紙データのデジタル化)を訴える機会でもあると考え、快諾いたしました。 この時、「参加者が”へーっ”と思えるような内容の話をお願いしたい」との注文もありました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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今までは、「浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ」とか「大野九郎兵衛は敵前逃亡した」とか「堀部安兵衛はケンカ安で恰好よい」とか単純化されて映画化されたり小説化されたりしています。 今回は、大野九郎兵衛を経済官僚という新しい視点で、整理してみました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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家老4人の内内蔵助ら3人は譜代(代々の家臣) 大野九郎兵衛1人のみが一代で家老に出世 | |||||||||||||||||||||||||||||||
赤穂城の大手門・塩屋門・清水門をまかされたのは? 大手門は大石内蔵助、塩屋門は大野九郎兵衛、清水門は奥野将監 | |||||||||||||||||||||||||||||||
封建制度とは「土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる制度」です。 大名の規定は、@将軍から1万石以上の領地を与えられ、A将軍と御目見得が出来る武士です。 赤穂浅野家の歴史 正保2(1645)年6月22日、浅野内匠頭長直(三男長重の子)が常陸国笠間から赤穂に移り、179カ村5万3500石の領有が認められました。大石内蔵助良欽は赤穂浅野家の筆頭家老として着任しました。 正保3(1646)年、赤穂城の築城を開始しました。 寛文元(1661)年、赤穂城が完成しました。 延宝元(1673)年9月6日、筆頭家老の大石権内良昭(34歳、良欽の子)は、赤穂藩の大坂屋敷で亡くなりました。 赤穂浅野家2代目・浅野采女正長友(31歳)は、大石良昭の父・内蔵助良欽(56歳)の養子に良昭の長男・良雄(15歳)を迎えることを認めました。 延宝3年(1675)1月26日、浅野長友(33歳)が江戸で亡くなりました。 3月25日、4代将軍徳川家綱は、浅野内匠頭長矩(9歳)に対して赤穂藩主(表高5万3500)の継承を認めました。 4月7日、赤穂浅野家3代目・浅野内匠頭は、初めて将軍徳川家綱に御目見得しました。 ?月、大野九郎兵衛は、藩札の発行主張して、許可されています。この結果、浜男・浜子を賃金労働者として、協業による大量生産に成功しました。 延宝5(1677)年1月26日、大石良雄の祖父で養父・大石内蔵助良欽(60歳)が亡くなりました。 浅野内匠頭は、大石内蔵助(19歳)に対して祖父の遺領(1500石)の継承と見習家老を認め、大叔父(祖父良欽の弟)・大石頼母助良重に後見を命じました。 土地の相続は家の存続を前提として、将軍または大名から認められています。 土地を与えられた結果、将軍・大名(上・主人)に対して家臣(下・従者)は、忠誠を誓います。 解説1:大野九郎兵衛は、赤穂城を築城するための財政再建のプロとして招聘されました。 解説2:はっきり年代が分かっているのは、延宝3(1675)年に藩札を発行で名を残しています。 解説3:筆頭家老は大石内蔵助良雄で1500石、上席家老は藤井又左衛門宗茂で800石、 江戸家老は安井彦右衛門で650石、末席家老は大野九郎兵衛知房で650石です。大野九郎兵衛以外は譜代の家臣です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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赤穂浅野家の祖・長重が城築城の財政再建に着手 塩田開発のプロとして大野九郎兵衛を抜擢 | |||||||||||||||||||||||||||||||
入浜式塩田の構造図 | |||||||||||||||||||||||||||||||
入浜式塩田を解剖 毛管現象を利用して、海面より上の地表に塩の結晶 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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写真:入浜式塩田の復元(赤穂海浜公園) | |||||||||||||||||||||||||||||||
大野九郎兵衛は毛管現象を利用した入浜塩田を開発 大野九郎兵衛は藩札を発行→赤穂藩は塩の生産と販売を独占 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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赤穂藩の幕府掌握石高(5万3500石) 塩田収入(3万5000石) その功で、大野九郎兵衛一代家老へ | |||||||||||||||||||||||||||||||
■浅野氏時代の塩田(含推測) | |||||||||||||||||||||||||||||||
赤穂藩の幕府掌握高は5万3500石 塩田収入は3万5000石 実際の高は8万8500石 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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(1)敵前逃亡の史料→身分制の時代に開城大評定は可能か? (2)親戚筋の圧力・重臣のみで開城決定の史料→身分制の時代には合理的 | |||||||||||||||||||||||||||||||
本紙発行の「忠臣蔵新聞」によると、元禄14(1701)年4月12日、大石内蔵助さんが「開城後を待ち、交渉次第で切腹もある」と提案すると、もう一人の家老大野九郎兵衛さんが幕府に背くことに反対し「無条件明け渡し」を主張し、長老の原惣右衛門さんに追い出されるシーンもありました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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同じく、本紙発行の「忠臣蔵新聞」によると、4月12日、江戸より帰国した月岡治右衛門さんや多川九左衛門さんらは浅野本家や戸田氏定さんから預かった書状を内蔵助さんに渡しました。そこには「お城は異議なく引き渡せ、そうでなくば大学さんのためによくない」と書いてありました。 内蔵助さんは連判の侍だけを屋敷に召集して、本家などから来た書状を見せました。その結果、お城を引き渡すことが決定されたといいます。 解説4:浅野本家や親戚筋の圧力によって、大石内蔵助ら重臣で開城を決定したというのが、当時の身分制の時代を考慮すると、合理的です。 解説5:「神文判形」を最初から提出していない重臣に、近藤源八正憲がいます。彼は赤穂城を縄張りをした近藤三郎左衛門正純の子で、組頭1000石です。大野九郎兵衛と違うのは、近藤正憲が譜代の大名であるという点です。誰かを徹底的な悪者にすることで、物語としては、盛り上がります。吉良上野介と同様に、史料に基づいて真実を明らかにする必要があります。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
連判之侍中斗ヲ内蔵介屋敷江呼揃へ安芸守殿・采女正殿より参候御書ヲ拝見為仕候て、然上ハ 無異儀御城ヲ相渡シ可申由ニ相談落着仕申候 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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(1)大石内蔵助が大野九郎兵衛に示した温情主義の意味? (2)武断派の内蔵助は、文治派の九郎兵衛の立場を理解していた? | |||||||||||||||||||||||||||||||
本紙発行の「忠臣蔵新聞」によると、元禄15(1702)年11月29日、瑶泉院さんに会ったとされる日に、内蔵助さんは、瑶泉院さんの用人である落合与左衛門さんに会って、 九郎兵衛さんのことを喋っています。 「大野九郎兵衛の道具については、去年の冬にお話しましたとおり、大学様へ申し上げ、大学様の返事を待っておりました所、もはや伺い申すべき時期もありません。その上、赤穂の殿様が新しく着任するよう仰せつけられましたので、そのまま差し置くこともならないので、代官手代より内意を受けており、幸い、九郎兵衛は困窮しているといい、差し押さえた道具については、ツテをもって望み願って来たので、願の通り返すということにしました。その詳細は書き付け、これもまたお渡しいたします。 11月29日 大石内蔵助 落合与左衛門様」 というものです。 解説6:大野九郎兵衛は、浅野家の財政再建のために招かれた経済官僚です。社長の責任で浅野家が倒産すると、九郎兵衛は、高級技術官僚(テクノクラート)として、他家(他の会社)に転勤することは当然です。武断派の内蔵助は、立場の違う文治派の九郎兵衛を理解していたのではないでしょうか。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
一 大野九郎兵衛道具之儀、去冬御物語之通大学様へ申上御意次第ニ可仕と存候処、最早相伺可申 時節無御座候、其上赤穂御城主被 仰付候故其侭差置候儀難成様子ニ御代官手代より内意承候ニ付、幸九郎兵衛困窮申右道具之儀手寄を以所望願申ニ付、則願之通差遣埓明候、右様子委細書付取集 是又進之候 十一月廿九日 大石内蔵助(花押) 落合与左衛門様 人々御中 |
出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』
赤穂義人纂書『江赤見聞録第三巻』巻之五