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平成22(2010)年11月16日(第316号)

忠臣蔵新聞

臨 時 増 刊 号
文化協会の役員さんの前で講演
新視点━背景に武断派と文治派の葛藤(3/4)
(1)武断派(ケンカ堀部安兵衛)
(2)文治派(片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門)
新参者の片岡高房さんと磯貝正久さんの屋敷跡
堀部安兵衛武庸さん
(馬廻り使番200石34歳)
磯貝十郎左衛門正久さん
(物頭側用人150石25歳)
片岡源五右衛門高房さん
(児小姓頭350石37歳)
 父は櫓焼失の責任をとり浪人となる。堀内道場の代稽古を勤める。高田の馬場の決闘が有名である。剣一筋で浅野家に仕官する。  生れつき眉目秀麗で、かつ怜悧明敏で器用であった。14歳の時に児小姓に抜擢され、無高から150石へ出世する。  生れつき眉目秀麗で、頭脳明晰であった。主君から寵愛を受け、100石から350石へ出世する。

 平成22(2010)年11月17日(赤穂発)
堀部安兵衛武庸さんとは?
 寛文10(1670)年、堀部安兵衛武庸さんは、新発田藩の溝口家・家臣である中山弥次右衛門さん(200石)の長男として新発田で生まれました。
 母は、安兵衛さんを出産して直ぐに亡くなったので、母方の祖母・溝口秋香(新発田初代藩主の娘)さんのもとで育てられました。
 安兵衛さんが3歳の時、養母の溝口秋香さんが亡くなったので、父・中山弥次右衛門さんの所に戻りました。
 天和3(1683)年、安兵衛さんが13歳の時、新発田城の櫓が失火した責任をとって、父・中山弥次右衛門さんが溝口家を辞任しています。
 その後間もなく、父・中山弥次右衛門さんが亡くなりました。安兵衛さんは、母方の祖父・溝口盛政(新発田藩士で、溝口秋香の夫)に引き取られましたが、その盛政も亡くなりました。
 そこで、安兵衛さん、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られました。
 元禄元(1688)年、安兵衛さん(19歳)は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸に出ました。それが縁で、小石川牛天神下の道場主・堀内正春に入門しました。そこで修業に励み、免許皆伝を許されました。
 元禄3(1690)年、安兵衛さん(21歳)は、牛込天龍寺竹町に、自前で、一軒家を持ちました。
 元禄7(1694)年2月11日、安兵衛さん(25歳)は、高田の馬場の決闘で助太刀して、3人を切り倒しました。
 閏5月26日、「高田の馬場の18人斬り」が有名となり、赤穂浅野家・堀部弥兵衛さん(300
)から養子を申し込まれました。安兵衛さんは、「中山家を継ぐ身である」と辞退しました。頑固一徹の弥兵衛さんは、藩主・浅野内匠頭さんに「堀部の姓は亡くなるが、中山安兵衛を婿養子に迎えたい」と直訴しました。その結果、浅野内匠頭さんから「中山姓のままで養子縁組してもよい」と許可されました。
 7月7日、安兵衛さんは、この話を聞いて、感激し、堀部弥兵衛さんの娘・ホリさんの婿養子となりました。そして、正式に、堀部安兵衛と名乗って、赤穂浅野家の家臣となりました。
 元禄10(1697)年、安兵衛さんが28歳の時、弥兵衛さんは隠居して、隠居料50石を安堵されました。安兵衛さんは、堀部家の家督(200石)を相続しました。
 元禄14(1701)年3月14日、浅野内匠頭さんは、吉良上野介さんに刃傷に及びました。
 元禄15(1702)年12月14日、安兵衛さん(33歳)は、大石内蔵助さんらと吉良邸に討ち入りました
 元禄16(1703)年2月4日、安兵衛さん(34歳)は、幕府の命により伊予松山藩主・松平隠岐守定直邸にて切腹しました。
 いやー、安兵衛さんは、苦労人だったのですね
 私たち忠臣蔵を研究する者に欠かせない一級史料があります。『堀部武庸日記』です。討ち入り同志を糾合するために、大坂入りする直前、柳沢吉保さんの儒学の師・細井広沢さんに預けた往復書簡集です。
 コピー機がない江戸時代、来た手紙は保存できます。出した手紙も保存していました。安兵衛さんは、出す手紙と保存用の手紙を書いていたのです。討ち入り・処刑後、討ち入りの本意が後世に伝わるよう準備していたのです。
 この『堀部武庸日記』は、現在、東大史料編纂所に保管されています。この貴重な史料が散失しなかったのは何故でしょうか。細井広沢さんから、柳沢吉保さんを通じて、東大に前身である湯島の聖堂学問所の大学頭・林鳳岡に渡ったからではないでしょうか。
 安兵衛さんは、高田の馬場の決闘といい、『堀部武庸日記』といい、文武に秀でた人物だったのです。

片岡源五右衛門高房さんとは?
 寛文7(1667)年、片岡源五右衛門高房さんは、父は尾張藩徳川家の家臣・熊井重次(300石)さん、母は側室、2人の長男として生まれました。
 寛文10(1670)年、源五右衛門さんが4歳の時、正室の子・熊井次常さんが生まれました。源五右衛門さんは、弟の次常さんに「兄上」と呼ばされていました。
 延宝2(1674)年、源五右衛門さん(8歳)は、親戚で赤穂藩士・片岡六左衛門さん(100石、妻が熊井重次さんの弟の娘)の養子になりました。
 延宝3(1675)年、源五右衛門さん(9歳)は、養父・六左衛門さんが亡くなったので、家督(100)を相続しました。この年、藩主・浅野内匠頭さん(9歳)は、美男子の源五右衛門さんを小姓に抜擢しました。
 貞享3(1686)年4月9日、源五右衛門さんは、20歳の時、100石を加増され200石となりました。
 元禄4(1691)年1月12日、源五右衛門さんは、25歳の時、100石を加増され300石となりました。
 この年、源五右衛門さんは、赤穂浅野家の家臣・八嶋惣左衛門さんの娘と結婚しました。この2人の間に、男女各2人の子が生まれています。
 元禄12(1699)年1月12日、源五右衛門さんは、33歳の時、50石を加増され350石となりました。そんな関係で、内匠頭さんと源五右衛門とは「男色」の関係にあったとも言われています。
 屋敷地を見ても、本丸前の大石頼母助良重と三の丸の大石内蔵助良雄との間に、片岡源五右衛門さんの屋敷があります。その寵愛ぶりが感じられます。
 元禄14(1701)年3月14日、刃傷事件の時、源五右衛門さんは、江戸城内で供待ちをしていました。
 一関藩・田村邸で、浅野長矩さんは、切腹しました。内匠頭さんが死の前、源五右衛門さんと言われています(『多門筆記』)。映画やテレビでも、サクラの樹の下に蹲踞する源五右衛門さんを見つけ、「何事も内蔵助と計ってのう」という場面は、忠臣蔵には欠かせせせん。しかし、一関藩の記録では、この事実を否定していますが‥‥。
 「この段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という内匠頭さんの遺言は、源五右衛門さんと礒貝十郎左衛門さん宛てになっていました。そこで、田村家は、この2人に遺言状を渡したといいます。
 田村家から内匠頭さんの遺骸を受け取った源五右衛門さんと十郎左衛門さんらは、泉岳寺に埋葬し、その墓前で髻を切って、仇討ちを誓いました。ここには、江戸家老・安井彦衛門さんや堀部安兵衛さん
に参加していません。
 源五右衛門さんと十郎左衛門さんは、仇討ち同志を募るため、赤穂に下りました。しかし、赤穂藩では殉死・切腹の方向で意見が流れていたので、義盟にも加わらず、江戸に帰りました。
 浅野内匠頭さんの側近中の側近として立身出世した源五右衛門さんと十郎左衛門さんは、ただひたすら主君を思って仇討ちを願っていました。
 他方、大石内蔵助さんとも意見を別にする江戸の急進派とも、側近派とは立場を事にしていました。武芸者の堀部安兵衛さん・高田郡兵衛さん・奥田孫大夫さんら江戸の急進派は、武士としての実力による仇討ちを希望していました。
 内匠頭さんの側近派・源五右衛門さんらは、少人数で、武術とも縁のない小姓だったので、身動きも出来ませんでした。
 元禄15(1702)年3月、内蔵助さんは、安兵衛さんら江戸・急進派の軽挙妄動を抑えるため、吉田忠左衛門さんを派遣しました。この時、側近派の源五右衛門さんらは、忠左衛門さんから説得を受け、内蔵助さんの義盟に参加しました。
 閏8月、源五右衛門さんは、尾張の父・熊井重次さんや弟で兄・熊井次常さんに配慮して、義絶状を送りました。
 12月14日、源五右衛門さんは、表門・屋内討ち入り組として、富森助右衛門さん・武林唯七さんと吉良邸に討ち入りました。
討ち入り後に、高房は大石良雄らとともに熊本藩主細川越中守の中屋敷に預けられた。
 元禄16(1703)年2月4日、源五右衛門さんは、幕府の命により熊本藩主・細川越中守綱利邸にて切腹しました。

磯貝十郎左衛門正久さんとは?
 たまたま十郎左衛門の父と浅野家の堀部弥兵衛とが心易かったので、この弥兵衛の推挙によって、十郎左衛門が十四才の時に内匠頭長矩の児小姓に取り立てられた。
 十郎左衛門は生れつき幼少から主君内匠頭がだから僅か十年の間に、段々と出世をし、百五十石を賜わり、物頭側用人の重要な役柄にまで立身した。
 延宝7(1679)年、磯貝十郎左衛門正久さんは、旗本・松平隼人正さんの家臣・礒貝権左衛門正次さんを父に、貞柳尼さんを母に三男坊として、江戸で、生まれました。生まれついての眉目秀麗、怜悧明敏で器用でした。幼いころから書を学び、能や仕舞をよくし、鼓の名手でもありました。
 旗本・松平家が断絶したことにより、磯貝家は浪人の家となりました。そこで、長男を内藤家に、次男を神谷家に養子に出しました。三男の十郎左衛門さんは、京都愛宕山教学院の稚児小姓となりました。
 元禄5(1692)年、父・礒貝権左衛門さんは、赤穂浅野家の家臣・堀部弥兵衛さんと懇意であったので、十郎左衛門さんを浅野内匠頭さんに推薦しました。その結果、内匠頭さんの寵愛を受ける稚児小姓(150石)として仕官するようになりました。いきなり150石とは破格の待遇です。
 十郎左衛門さんは、主君・浅野内匠頭さんが能や鼓をあまり好まないことを知り、これらを止めて、主君の好きな書物の写本とか、書道に励みました。このことで、主君の寵愛が一段と深まりました。しかし、琴だけはひそかに続けており、細川邸での切腹後、遺品を調べると。琴の爪があったということです。
 稚児頭の片岡源五右衛門さんとは、特に親しく、年齢の差を越えて、刎頸の交わりをしました。

 「この段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という内匠頭さんの遺言は、源五右衛門さんと礒貝十郎左衛門さん宛てになっていました。そこで、田村家は、この2人に遺言状を渡したといいます。
 田村家から内匠頭さんの遺骸を受け取った源五右衛門さんと十郎左衛門さんらは、泉岳寺に埋葬し、その墓前で髻を切って、仇討ちを誓いました。ここには、江戸家老・安井彦衛門さんや堀部安兵衛さん
に参加していません。

 元禄14(1701)年3月14日、刃傷事件がおこりました。十郎左衛門さんは、内匠頭さんの登城のお供をして、大手供待で待っていました。
 3月14日夕、「この段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という内匠頭さんの遺言は、源五右衛門さんと礒貝十郎左衛門さん宛てになっていました。そこで、田村家は、この2人に遺言状を渡したといいます。
 3月14日午後10時頃、田村家から内匠頭さんの遺骸を受け取った源五右衛門さん、十郎左衛門さん、田中貞四郎さん、中村清右衛門さんは、泉岳寺に埋葬しました。そして、殉死の形式により、内匠頭さんの墓前で髻を切って、仇討ちを誓いました。切った髷を内匠頭さんの遺体の側に埋葬しました。
 同志を集めるために赤穂に向かう決意をした十郎左衛門さんは、母の貞柳さんに『城中への文通は母上といえども、女性からのは禁物でございます。たとい幸便でありましても、決してお手紙を下さいませんように』と念を押したといいます。
 4月11日、十郎左衛門さんらは、国家老・大石内蔵助さんに仇討ちを説きましたが、賛同を得られなかったので、義盟に加わらず、江戸に帰りました。江戸に帰って芝源助町に住んでいた十郎左衛門は、江戸急進派の堀部安兵衛さんらとは独自の行動をとっていました。
 その間、十郎左衛門さんは、内藤十郎左衛門と変名し、酒屋を営みながら、仇討ちの機会をうかがっていました。
 元禄15年(1702)3月、側近派の十郎左衛門さん・源五右衛門さんらは、吉田忠左衛門さんから説得を受け、内蔵助さんの義盟に参加しました。
 12月、討ち入りまじか、十郎左衛門さんの母・母の貞柳さんが重病となりました。十郎左衛門さんは、義の為にと涙をのんで討ち入りに向かいました。
 12月14日、十郎左衛門さんは、吉良邸討ち入りでは裏門組に属して、闘いました。
 泉岳寺へ引き揚げる途中、金杉橋に来た時、十郎左衛門さんの家の前にさしかかりました。内蔵助さんは、「泉岳寺に入ると後はどうなるか分らない。母の見舞をしてはどうか」と勧めましたが、十郎左衛門さんは、「私は死を決心して母と別れを告げて参りました。もし、私が母を見舞に行っている間に上杉の追手が来て、一戦交えるようなことでもあれば、終世の名折れとなります」とその勧告を断りました。
 元禄16(1703)年2月4日、十郎左衛門さんは、幕府の命により熊本藩主・細川越中守綱利邸にて切腹しました。遺品の中に、紫縮緬の袱紗(ふくさ)に包まれた琴の爪一つあったといいます。

 十郎左衛門さんの遺品「琴の爪」をヒントにして真山青果は、戯曲『元祿忠臣蔵・大石最後の一日 琴の爪』を描いています。 
 元祿16年、細川家にお預けのの磯貝十郎左衛門さんは、生への執着を捨ててます。
 しかし、婚約者のオミノさんは諦めきれません。自分は「吉良邸情報を聞き出すために利用されたのであろうか」、「自分を心底愛してくれていたのだろうか」、十郎左衛門さんに会って、本心を聞き出したい。
 オミノさんは、男装の小姓になって細川邸にしのび込みました。若い十郎左衛門の心が乱されることを恐れてた大石内蔵助さんは、オミノさんに「こらえて下され」と懇願しました。十郎左衛門さんも、「敵の眼をあざむくための婚約であった」と冷たく対応しました。オミノさんは、泣くばかりでした。 2月4日の切腹の日が来ました。オミノさんに同情した細川家の世話役・堀内伝右衛門さんは、十郎左衛門さんに「何か一言を」と目で挨拶しました。十郎左衛門さんは、無言で、袱紗(ふくさ)の包みを堀内伝右衛門さんに手渡すと、静かに自害しました。袱紗の中には琴の爪が入っていました。
 琴の爪を手にしたオミノさんは、懐剣で喉をついて、自害しました。

 元禄4(1691)年、玉屋忠兵衛さんは、上野輪王寺の宮・公弁法親王さん(後西天皇の親王)のお供をして、京都より江戸に移りました。そして、忠兵衛さんは、江戸で初めて絹ごし豆腐を作りました。しかし、「豆腐」の「腐」を忌み、「豆富」として、根岸に豆富茶屋を開きました。
 公弁法親王さんは、ここの「豆富」を好み、「笹の上に 積もりし雪の如き 美しさよ」と賞賛したので、「豆富」を「笹乃雪」と名づけ、屋号にも採用しました。
 元禄15年12月14日、赤穂浪士は、吉良邸に討ち入り、大石内蔵助さんら17人が細川邸にお預けとなりました。
 公弁法親王さんは、内蔵助さんらを気づかい、細川邸に豆富を届けました。 
 「笹乃雪」の娘・お静は、雪道で足をとられ滑りそうになった時、磯貝十郎左衛門が助けました。お静は、それ以来、美男子の十郎左衛門さんを忘れられなくなりました。
 十郎左衛門さんは、俳人の宝井其角さんに連れられて、豆富茶屋「笹乃雪」にやって来ました。お静さんの心は、熱く燃え上がったということです。十郎左衛門さんも、それ以来い、たびたび来店したということです。
 そのことで、公弁法親王さんが「笹乃雪」の「豆富」を細川邸に届けたというのです。

安兵衛さんらは源五右衛門さんや十郎左衛門さんらを同志に入れる
心変わりした2人は、連絡を絶つ
十郎左衛門さんらが町人になっているのを見て、大笑い

6月29日頃(東京本社発)

 剣一筋の堀部安兵衛さんは、ジャニーズ系というだけで、浅野内匠頭さんの寵愛を受けて出世した片岡源五右衛門さんや磯貝十郎左衛門さんらとは肌が合いませんでした。
 やがて刃傷事件がおこり、赤穂城は落城しました。その後の経過を、安兵衛さんは、次のように語っています。
 その後、磯貝十郎左衛門さんらは、亡君の厚恩を受け、浅野内匠頭さんが切腹した時は、落髪までした者たちです。最近になって、私たち3人の所をやってきて、「仲間になって、その本意を遂げ、亡君の憤りを晴らたい」と言ってきたので、人数の内に加えました。そして、「寵愛を受けた者として、主君を追って切腹しなければならない立場だが、仇討ちに加わりたいいうのももっともである」と申し聞かせてやりました。その後、色々と考えたのでしょうか、心変わりして、連絡をしなくなりました。
 最近、源助橋辺りに酒店を出し、町人になっていました。余りのことに、大笑いをしてしまった。
史 料
「扨磯貝十郎左衛門義ハ亡君年頃ノ厚恩ヲ受切腹ノ砌落髪迄仕タル者也、此節迄ハ三人ノ者共方へ罷越各草履ヲ取候而ナリ其本意ヲ遂ケ亡君ノ御憤ヲ散度ノ由度々三人方ヘ通達致候ニ付テ人数ノ内ニモ相加ヘ、其方義ハ追腹ヲモ仕候ハネハ不叶者ナレハ尤ノ所存ト申聞セ候処、其以後何トカ思案致シケン、心替シテ音信不通ニ成、源助橋辺酒店ヲ出シ不通ニ人ニ不出合町人ノ体ニ成ケル、余りノ事大笑致シケル」

器用でおべんちゃらが言える源五右衛門さんら
無骨で不器用な安兵衛さん
出世はどちら?
 磯貝十郎左衛門さんは、京都のお寺の稚児でしたが、ジャニーズ系の風貌だったので、浅野内匠頭さんから採用されて150石を与えられました。無高からですから、破格の扱いです。
 片岡源五右衛門さんも、ジャニーズ系の風貌だったので、浅野内匠頭さんから寵愛を受け、父の財産を受け継いだ時は100石でしたが、その後、加増されて350石となりました。内匠頭さんが切腹した時、最後に会ったのが、源五右衛門さんとされています。
 十郎左衛門さんは、鼓の名手で、多くの人から激賞されていましたが、主君の内匠頭さんが鼓が嫌いだと聞き、以後鼓を打つことを封印したといいます。おべんちゃらの名手でもあったのです。
 他方、堀部安兵衛さんは、苦労人です。剣で就職した無骨者で、おべんちゃらも言えません。養父から受け継いだ財産は300石でしたが、養父の隠居料50石と安兵衛さんの石高200石を合わせても、50石の減収です。
 源五右衛門さんらが町人になって吉良邸を探っても、不器用な安兵衛さんには、そんな真似は出来ません。
 今のサラリーマンでも、ジャニーズ系で、器用でおべんちゃらが言えるのが出世するのでしょうね。

町人になって討ち入り時期を待つ(源五右衛門さん・十郎左衛門さん)
赤穂藩断絶後、仕官の話を断る(堀部安兵衛さん)
町人を賎しみ、道場主を貫く(堀部安兵衛さん)

出典
赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』
赤穂義人纂書『江赤見聞録第三巻』巻之五

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