シナリオ忠臣蔵
| 1 | 1600年・1616年 |
| 関が原の戦い・大坂の役を通して、広島浅野本家・赤穂浅野家・三次浅野家が誕生しました。 | |
| 2 | 1645年 6月22日 |
| 赤穂浅野家の祖となった浅野長直は赤穂城を築造するために、新田を開発し、大野九郎兵衛を抜擢して塩田のマニュファクチャ化(藩札)に努めました。 | |
| 3 | 1648年 |
| 赤穂城は南は瀬戸内海、東は千種川の自然を取り入れ、北は寺院、西は武家屋敷を配置し、合理的な城作りを成し遂げました。 | |
| 4 | 1652年12月 |
| 江戸時代一流の学者山鹿素行が江戸の赤穂浅野家に就職しました。その期間は9年余です。 | |
| 5 | 1657年12月21日 |
| 吉良上野介(17歳)が上杉謙信以来の名門上杉家の三姫と結婚しました。 | |
| 6 | 1659年 |
| 吉良上野介は、将軍の名代として何度も京都(二条城)の御所を訪ねています。 | |
| 7 | 1664年 7月11日 |
| 吉良上野介の長男(2歳)が名門上杉家の養子となりました。 | |
| 8 | 1666年10月24日 |
| 山鹿素行(45歳)が『聖教要録』で幕府を批判したとして、赤穂に流されてきました。素行が宿したのは大石内蔵助の大叔父頼母助の家でした。9歳の内蔵助は、どんな気持ちで素行を見ていたのでしょうか。 | |
| 9 | 1668年 3月26日 |
| 浅野内匠頭の祖父長直が勅使饗応役を勤めました。 | |
| 10 | 1673年 |
| 吉良上野介の長男で上杉家の綱憲が御三家の紀州徳川家の為姫と結婚しました。吉良家のこうした結婚を通して、その地位を不動のものとしていきました。 | |
| 11 | 1675年 3月25日 |
| 浅野長直の子長友が病気のため、長男の内匠頭が赤穂藩の新城主となりました。 | |
| 12 | 1675年 6月23日 |
| 山鹿素行(52歳)が『中朝事実』を書いたことで、幕府の怒りがとけ、江戸に帰ることが許されました。17才の大石内蔵助は素行を赤穂城から見送ったが、その期間どのような影響を受けたのでしょうか。 | |
| 13 | 1677年 1月26日 |
| 大石内蔵助(19歳)が家老職1500石を相続しました。 | |
| 14 | 1677年 9月21日 |
| 幕府は浅野内匠頭と三次浅野家の阿久利との婚約を許可しました。 | |
| 15 | 1680年 7月 |
| 徳川綱吉が将軍となりました。寺を建てたり、湯島の聖堂で儒学を講義したり、元気な将軍でした。 | |
| 16 | 1683年 2月 6日 |
| 浅野内匠頭が17才で勅使饗応役を勤めました。この時は大石内蔵助の大叔父頼母助が世話役を務め、内匠頭は無事大役を勤めました。 | |
| 17 | 1686年 |
| 大石内蔵助(28歳)が豊岡藩の家老石束家のリク(18歳)と結婚しました。 | |
| 18 | 1688年10月 8日 |
| 吉良上野介(48歳)が妻三姫の病気回復を喜んで、冨好新田(約100町)を開拓する。 |