| 1701年2月4日〜29日 |
| 元禄14年(1701) 2月4日 |
| 月番老中秋元但馬守喬知は来月公家衆が江戸に来るので、殿中帝鑑の間において浅野内匠頭(35歳)を勅使御饗応役(ご馳走役)に、伊達左京亮宗春(村豊)(伊予吉田城主)を院使御饗応役に任命する。 上野介、畠山下総守基玄・大友近江守義孝・品川豊前守伊氏と共に従う。 ●第113代東山天皇 勅使 柳原前大納言資廉(正二位) 高野前中納言保春(従二位) ●仙洞御所 霊元上皇 院使 清閑寺前大納言煕定(従二位) ●幕府御馳走役 勅使 播磨国赤穂城主5万3000石・浅野内匠頭長矩 院使 伊予国吉田城主3万石・伊達左京亮宗春 肝ア 高家筆頭4200石・吉良上野介義央 浅野内匠頭は以前(1696年)の記録を妻の実家備後三次家より借用する。 |
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| 2月17日 |
| 玉室梅容(内蔵助妾腹の子女)が赤穂にて没する(4歳)。 |
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| 2月27日 |
| 東山天皇の勅使柳前大納言資廉・高野前中納言保春、霊元上皇の院使清閑寺前大納言煕定が京都を発って江戸へ向かう。 |
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| 2月29日 |
| 吉良上野介(61歳)が江戸に帰り、将軍徳川綱吉(56歳)に復命する。 浅野家用人建部喜六・近藤政右衛門が吉良上野介への付け届をすすめると、内匠頭は「3月15日が過ぎてお役がすんでからでいい」と答える。 浅野内匠頭は、呉服橋内の吉良邸におもむいて挨拶する。内匠頭は勅旨への挨拶について質問すると、吉良上野介は「毎日に決まっている」という。内匠頭は18年前の自分の記録や5年前の備後三次家の記録にもないので不審に思い、伊達左京亮に聞くと、「二、三度と吉良殿から言われた」と答える。そこで老中土屋相模守に聞くと「二、三度でいい」という。そのようなトラブルがおこる。 |