home back next

シナリオ忠臣蔵

1701年 1月11日
吉良上野介(61歳)が閨閥を背景に、高家筆頭に登りつめました。
1701年 2月 4日
浅野内匠頭(35歳)が二度目の勅使饗応役を任命されました。
1701年 2月29日
院使饗応役の伊達左京亮が指南役の吉良上野介に黄金を贈ったのに、浅野内匠頭は鰹節を贈ったのいう噂が起こりました。
吉良上野介の支持で精進料理を作ったのに、上野介から「誰が作れといった」と浅野内匠頭は非難されます。
1701年 3月11日
吉良上野介浅野内匠頭には「必要ない」と言っておきながら、伊達左京亮には畳替えを指示していることが分かりました。そこで徹夜して増上寺の畳替えをしたという噂も伝えられております。
墨絵の衝立事件もおこりました。
式服事件もおこりました。
1701年 3月14日
浅野内匠頭は「この間の遺恨覚えたるか」と言って、吉良上野介に切りかかりました。
幕府は吉良上野介の傷を公傷として手当てをしていたが、その後私傷として手を引く。つまり幕府はこの段階で、喧嘩両成敗という結論に達したことになる。
10 将軍徳川綱吉(56歳)は激情のあまり、この決定を無視して、「家は断絶、身は切腹」という一方的な採決をする。
11 幕府の検使は徳川綱吉の気持ちを考えて、庭前での切腹を命じました。検使はこの処置が不適切としてのちに処分されました。
12 片岡源五衛門浅野内匠頭に涙の別れをします。
13 片岡源五衛門らが浅野内匠頭の遺骸を引き取り、泉岳寺に葬りました。
14 1701年 3月15日
浅野内匠頭の妻瑶泉院(28歳)は実家の三次浅野家の江戸屋敷に引き取られました。すでに父は亡く、浅野本家からきた義澄が世話をする。
15 1701年 3月15日
浅野大学をはじめ浅野家の親戚も謹慎を命ぜられました。将軍綱吉は簡単に大名を改易する性格だったので、この先の不安は大変なものだったと思われます。
16 赤穂城を受け取る受城使が任命されました。赤穂の近隣の龍野藩と足守藩でした。

home back next