| 1701年3月25〜27日 |
| 元禄14年(1701) 3月25日 |
| 大石内蔵助は吉良上野介の生死が不明なので、再び、浅野土佐守長澄(備後三次藩主)へ伊藤五右衛門を、江戸へ田中権右衛門を派遣する。 浅野美濃守長恒(内匠頭の父の兄。叔父。旗本若狭野陣屋)からの書状(江戸の上屋敷・赤坂下屋敷返上のこと)が赤穂へ届く(第五報)。 赤穂城明渡しが「4月19日」と確定する。 |
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| 3月26日 |
| 浅野本家の浅野安芸守綱長は開城諭告使として用人井上団右衛門らを赤穂へ派遣する。 中川甚五兵衛邸での協議(3月25日)により、大垣藩主戸田采女正氏定よりの使者鹿野治部右衛門が江戸を発って赤穂へ向かう。 赤穂城没収の報が江戸家老より赤穂に届く。 浅野宗家・浅野安芸守綱長と三次浅野・浅野土佐守長澄より赤穂城公収の報告、穏便な開城を求める諭告が内蔵助に届く。 この頃、吉良上野介存命の報も届く。この頃の家臣の感情は、片落ちの裁定であるというのが主流である。 大石内蔵助は「浅野内匠守家臣は城引き渡し役人を少し残し、4月15日までにすべて城下を退去しるように」との指示を受ける。 世評を気にした吉良上野介は役職(高家筆頭)の辞任を申し出る。幕府はこれを許す。 |
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| 3月27日 |
| 3月25日に吉良生存を確認するため赤穂を出発した伊藤五右衛門は備後三次に到着する。 伊藤五右衛門は三次藩主浅野土佐守長澄よりの書状を得て赤穂へ向かう。 大石内蔵助は家臣を城中に集めて会議を開く(第一回大評定)。そして、刃傷事件に対する嘆願が受け入れられない場合は、城中にて殉死することを決意する。 |