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1701年3月28〜29日
元禄14年(1701)
3月28日
 3月18日江戸を出発した戸田采女正氏定の使者戸田源五兵衛(大垣藩番頭)・植村七郎右衛門が赤穂に到着する。

 戸田源五兵衛らは、戸田采女正の書状(第六報)には「受城使が任命された。4月中旬過ぎに城明渡しの予定である。城明け渡しには心得違いのないように。受城後脇坂淡路守が赤穂に在番する。藩の武具・家財の処分は構いなし」を大石内蔵助に渡す。

 戸田源五兵衛らは、内蔵助に家老・用人などの誓紙(神文)の求める。

 その夜、戸田源五兵衛らは、赤穂を出発して帰る。

 大石内蔵助は正式に領知没収・城明け渡しを初めて知る。

 浅野土佐守長澄は開城論告使として内田孫右衛門を赤穂に派遣する。

 大石内蔵助は家臣を城中に集めて連続して会議を開く(第二回大評定)。その結果、内蔵助と大野九郎兵衛は浅野本家に開城と家臣の退去を申し出ることにする。

 岡山藩は触書を出して境の警戒を命じる。

 赤穂藩札の引替えが終了する。

3月29日
 勅使一行は京都に帰着する。

 大石内蔵助は連続して城中で会議を行なう(第三回大評定)。この頃の家臣の感情は、大学の家督相続が実現しなければ、城で討死にするというのが主流となる(籠城と切腹)。大石の意向に従う者が署名する。彼らの中には1周忌頃には浅野家再興はなるだろうと気軽に署名した者もいたであろう。

 「吉良上野介殿の仕置きを求めているのではない。一同納得がゆくよう、筋を通して下さい」という書状を多川九左衛門と月岡次右衛門に託して受城使の目付荒木十左衛門と榊原采女に提出することが決まる。

 内蔵助は、物頭400石・多川九左衛門、歩行小姓頭300石月岡次右衛門に、大石内蔵助が書いた荒木十左衛門・榊原采女両目付への歎願書(一同が納得の行くようにという「鬱憤之書付」)を持たせて赤穂を出発させる。

 この日、家臣たち50名余は内蔵助に対して誓紙を提出し、嘆願が通らない時には自決するという連盟をつくる。

 老中の武具構い無しの処置により、赤穂で武器・馬具の売立てが始まる。

 広島藩の使者太田七郎右衛門が赤穂へ到着する。

 この頃、藩札の引き替えが大体終了したので、内蔵助は浅野安芸守家臣・権大夫に書状をもって金銭調達不要の旨伝える。

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