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1701年4月5日〜6日
元禄14年(1701)
4月5日
 多川九左衛門・月岡次右衛門は、江戸家老の安井彦右衛門と藤井又左衛門の意見を聞く。2人は戸
田采女正氏定に聞くように指示する。

 そこで多川・月岡の2人は「鬱憤之書付」を戸田采女正氏定に見せる。戸田は「この書状が幕府の目に
はいると、大学様・浅野家のためにならない。無事に開城することが、内匠頭様の意向に叶うことだ」と2
人に言う。そしてその旨の手紙を大石内蔵助に書く。

 嘆願使多川九左衛門・月岡次右衛門は戸田采女正氏定の書状を持ち、目的を果たせず帰途につく。

 赤穂藩家臣へ割賦金を支給する。その時の率は、知行高500石以上は100石につき10両、400石以
下は100石につき13両、15両、18両(高いほど逓減)、中小姓クラスは14両、中間は12両、徒士組は
10両、徒士並みは7両、筒持足軽・水手は米3石、長柄足軽は米2石、新・山中長柄は米5斗、渡人は4
斗、定番人は3両2歩とする。

 別に中小姓以上は6両、徒士組以上は2両、小役人は1両とする。

 江戸定番は赤穂へ帰る路銀197両2歩、知行100石について金10両、中小姓8両、徒士6両とする。
 大石内蔵助が指示して、岡島八十右衛門がこの分配を担当する。

 馬廻200石堀部安兵衛32歳・武具奉行150石奥田孫太夫55歳・給人200石高田郡兵衛が江戸を発
って赤穂へ向う。

 京都留守居役・小野寺十内秀和は、赤穂に到着する。

4月6日
 阿久利(内匠頭の室)は名を寿昌院から瑶泉院と改める。

 江戸を3月24日に出発した大垣藩(母の実家)の使者戸田権左衛門(従者65人)・杉村十太夫(同17人)・里見孫右衛門(同16人)・鹿野治部右衛門(同12人)・八田彦太夫(同8人)らが赤穂へ到着する。
「作法よく開城するように」と申し入れる。

 赤穂藩家中荒井安右衛門・萩原文左衛門が江戸より赤穂へ帰国する。

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