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1701年4月14日〜4月15日
元禄14年(1701)
4月14日
 江戸・高輪の万松山泉岳寺(浅野家江戸菩提寺)にて内匠頭の墓碑を建て、法要が営まれる。

 脇坂淡路守安照が江戸より龍野に帰着する。

 赤穂藩家臣が赤穂を退去する際、浅野家代々の永代供養のために集めた寄付が銀19貫296匁2分
になる。その金で田地・山林を買い、花岳寺・大蓮寺・高光寺に寄進する。

 その内訳は次のようなものである。花岳寺(浅野家代々の位牌を管理)に加里屋浜田3町2反3畝6歩、
大蓮寺(浅野長友夫人内藤忠種の娘の菩提寺)に田地4反6畝4歩、高光寺(浅野長直夫人丹羽長重の
娘の菩提寺)に5反2畝9歩などの金子・田地・山林を寄進する。

 戊の上刻(午後7時すぎ)、4月5日江戸を出発した堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛は赤穂に到
着し、大石内蔵助と面会する。そして「吉良が生存している以上、開城してはどこに顔向けできるのか。城
を枕に討ち死にしかない」と籠城を説く。

 しかし、大石は「籠城となれば大学長広様が指図したようにみられ、大学様の身を滅ぼすことになり、不
忠である。大学様の安否を見届けたいので、城を明け渡すことに決めた」ときっぱりと返事する。堀部らは
再考を訴えたが、大石は「涙をのんで城を明け渡すが、今は、大石にまかせてくれ」と言う。

4月15日
 受城目付荒木十左衛門ら斑鳩村(揖保郡太子町)に到着する。大石内蔵助は植村与五左衛門を迎えに派遣する。逃亡した大野九郎兵衛の代理として奥野将監を任用するように要請する。その結果、公書の自分の名の隣に奥野将監の名を連署させる。

 大石内蔵助は、開城準備のため仮政庁を三の丸から城外遠林寺に移し、藩政の残務と開城の準備に当たる。

 さらに、公金の残りを家臣に分配し、屋敷の引き払いをし、尾崎村に居を構える。

 堀部安兵衛ら3人は奥野将監や物頭を遠林寺会所に招く。奥野は「大石と決めた約束は変えられない」と言う。物頭も「大石・奥野と同じ所存である」と言う。再び大石と会う。大石内蔵助は「大学様が人前にたてない時は、以後の含みもある」と答える。堀部ら3人は「以後の含みもある」という大石の意見を自分らの都合のいい方に解釈する。

 田地永代供養料を浅野家永代祭祀のため赤穂の寺院に寄進する。

 鹿野治部右衛門が赤穂を発って江戸に帰着する。

 大石内蔵助一家は城下東郊の尾崎村の「おせど」へ移る。大石はここより遠林寺に通って執務する。

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