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1701年4月16日〜4月18日
元禄14年(1701)
4月16日
 受城目付荒木十左衛門・榊原釆女が赤穂へ到着する。境の陸村(相生市)までは用人田中清兵衛が出迎え、大石内蔵助と植村与五左衛門が赤穂東町口(中村の橋、東惣門)に出迎える。荒木を町宿の紙屋四郎方へ、榊原を笹屋新十郎方へ案内する。

 浅野赤穂藩関係書類の作成がはじまる(18日までに提出)。

4月17日
 江戸からの木下肥後守が有年に到着し、備中からの兵と合流する。

 幕府の代官石原新左衛門正氏・岡田庄大夫俊陳は赤穂へ到着し、石原新左衛門は柏屋道閑宅に、岡田庄大夫は和泉屋正因宅に泊まる。荒木は内蔵助内蔵助に紙屋への出頭を命じて、「収城使に無事城を引き渡すこと。家臣は代官到着後30日限りに退去すること」を申し渡す。

4月18日
 目付・代官がそろったので、城内検分が始まる。案内は引き橋より二の丸までは大石内蔵助と奥野将監、内山下(うちさんげ)屋敷は田中貞四郎・間瀬久太夫、外山下(そとさんげ)屋敷は横目の3人が勤める。門番は大手門は進藤源四郎、塩屋口門は佐藤伊右衛門が勤める。

 大石内蔵助は目付・代官の城内見分の際、目付に浅野大学処分解除の力添えを嘆願する(「大学様御閉門限御座候て御免之上御出候得ば、御面目もこれ在り、人前之御交も御心能…」と3度にわたって嘆願する)。目付荒木十左衛門は「江戸に帰ったときは老中方に伝えよう」と約束する。

 その後、収城大目付と代官らが収城業務を始める。

 これで多川九左衛門・月岡次右衛門の歎願使の埋め合わせができたが、赤穂浅野家存続か、存続否定(復讐)かの二派を生み出す原因ともなる。

 未の中刻(午後2時)、受城使脇坂淡路守安照が領地龍野を発って高取峠を越えて高野に至る。

 申の中刻(午後4時)、脇坂淡路守安照は赤穂城下へ到着し、目付荒木十左衛門・榊原采女の指示で城下1町目・2町目・3町目・寺町・横町に兵を配置する。

 赤穂近隣の諸藩が陸海の警戒にあたる。岡山の松平伊予守綱政は、備前と赤穂の境に600の兵を出す。

 受城使木下肥後守が有年を発って赤穂へ向かう。

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