home back next

1701年4月19日
元禄14年(1701)
4月19日
 子の刻(午前1時)、脇坂淡路守安照は大手門に至る。大手門・清水門・二の丸門・本丸門・厩口門・刎橋門に別れて待機する。

 丑の刻(午前4時)、木下肥後守は赤穂城下の塩屋口門前に到着し、塩屋口門・干潟門・西ノ門・透シ門・水手門・仕切門に別れて待機する。

 脇坂淡路守・木下肥後守の兵は合わせて4545人にふくれあがる。

 卯の中刻(午前6時)、受取の時刻に目付荒木十左衛門が大手門に、榊原采女が塩屋口門に出向き、受城を開始する。

 午前7時過ぎ、目付は受城使と共に城内に入り、三の丸、二の丸、本丸の門において、大石内蔵助ら居残りの赤穂家臣から引き渡しを受ける。

 本丸の受け取り後、受城使・目付・代官6人は本丸・御屋敷に向かう。玄関前の白砂に大石内蔵助と奥野将監が迎える。

 巳の上刻(午前9時すぎ)、大石内蔵助らが挨拶する。大石らは大垣藩使者戸田権左衛門に無事開城を報告する。

 木下肥後守が受け取った諸門を脇坂淡路守が受け取る。

 脇坂淡路守の龍野藩家臣が赤穂に在番する(元禄15年2月13日まで)。

 申の刻(午後4時)、大石内蔵助は数十人の家中の者をつれて、三の丸東端の清水門をくぐって城を後にする。この時、浅野本家の使者井上団右衛門は「大石殿が明け渡しを渋るなら、私は刺しちがえて死ぬ覚悟であった」と言って、大石を見送る。

 井上団右衛門は西村文右衛門に、戸田権左衛門は荒渡平右衛門に対して、赤穂城明け渡しの件を江戸に伝えるよう命じる。

 井上団右衛門は江戸へ・戸田権左衛門は大垣へ向かって赤穂を発つ。

 夜、木下肥後守は赤穂城下を発って領地足守へ向かう。

 内蔵助は、この間も、再三浅野家再興を嘆願し続けました。

home back next