| (1701年6月1日〜6月19日) |
| 元禄14年(1701) 6月1日 |
| 荒木十左衛門・榊原采女の両目付は、江戸に帰り、将軍徳川綱吉に会い、又老中及び若年寄に赤穂城収公を報告する。 |
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| 6月4日 |
| 大石内蔵助ら22人は、残務整理を全て終え、遠林寺の会所を引き払う。 大石内蔵助は預り金(690両2朱。銀46匁9分5厘)から京都瑞光院に、浅野内匠頭の墓に建立費用と して200両、位牌料として金8両1歩銀5匁2分5厘を納める。 |
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| 6月中旬 |
| 大石内蔵助は妻大石りく・長男松之丞(14歳)・次男吉千代(11歳)・長女くう(12歳)・次女るり(3歳)を 大坂表に先発させる。 |
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| 6月12日 |
| 大石内蔵助は堀部安兵衛宛に第一報に対する返事を出す。その内容は次のようである。@大勢の東 下りは本意を遂げる妨げになるA自分は疔腫なので動けない。 |
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| 6月19日 |
| 堀部安兵衛は第二報を大石内蔵助宛に送る。その内容は次のようである。@第一報の返事が未着であるA内蔵助の下向を待つ。 念のために親しい小山源五左衛門(内蔵助の叔父)にも送る。その内容は「同志と思い決めたものは4〜5人だが、何とか亡君の心を休めたい存念である。長広の安否を見届けてからという者がいるが、気恥かしい」というものである。 |