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(1702年7月25日〜7月29日)
元禄15年(1702)
7月25日
 大石内蔵助は妻りくの父(石束源五兵衛)宛に「主税と共に仕度しだい江戸へ下る」という手紙を出す。

 大石内蔵助は小野寺十内・小山源五左衛門を江戸へ発たせる。

 江戸の奥田孫太夫からの浅野大学処分の報告が京都にいる堀部安兵衛のもとに届く。安兵衛は大石
内蔵助に上方の同志の集合を依頼する。

7月27日
 吉田忠左衛門・近松勘六は、芝松木町の前川忠太夫方より新麹町六丁目大屋喜衛門店に移住する。
忠太夫には赤穂に帰ると言って家を出る。新麹町が江戸下向の同志の一時落着き先となる。吉田は作
州浪人と偽って住む。

7月28日
 大学長広は、広島宗家への左遷の件を知る。

 大石内蔵助は辰の刻(午前8時)に京都・大坂・山科の同志を京都円山に集め、仇討ちを決議する(
山会議
)。内蔵助はこの時の費用に1両を支給する。

 会議の結果、「喧嘩両成敗の原則からも、片手落ちのなされようである。かかる上は吉良殿の首を申し
受けたい」と決議する。大石は「9月中に上方の用事を果たして、10月には東下りをする」と約束する。

 会する者は京都・伏見・大坂などの19人。大石・原惣右衛門・堀部安兵衛・小野寺十内と幸右衛門父子・間瀬久太夫と孫九郎父子・潮田又之丞・大高源五・武林唯七・中村勘助・貝賀弥左衛門父子・大石孫四郎・不破数右衛門・矢頭右衛門七・岡本次郎左衛門・大石瀬左衛門・三村次郎左衛門。
 進藤源四郎と小山源五右衛門は姿を見せず。

 内蔵助は堀部には上洛費用に4両2歩、江戸下向費用に2人分8両1分銀4分5厘を支給する。

7月29日
 堀部安兵衛は京都を発って江戸へ帰る。大石内蔵助は潮田又之丞を同行させる。

 浅野大学長広は妻子と共に江戸を発って広島へ向かう。

 横川勘平は江戸に到着する

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