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(1702年8月2日〜8月13日)
元禄15年(1702)
8月2日
 堀部安兵衛・潮田又之丞は京都を発って江戸へ向かう途中、大学長広一行と浜松ですれ違うが、避けて会わないようにする(7月29日とも)。

8月5日
 大石内蔵助は大高源五・貝賀弥左衛門に書状を渡す。その内容は次のようである。「大石は『仇討ちの噂がしきりで、徒党の罪になりかねないので仇討ちをやめる』と言っているので神文を返す。今後は大石に頼らず各自で時節を待つなり、渡世に精をだすなり、勝手次第である。神文を受け取った者は同志から外す。立腹して、神文返戻に抵抗した者は内蔵助の本心を明かして同志に残す」。

 内蔵助の本心は同志を淘汰して強固な意志の同志の再結集にある。その結果同志は50人余となる。
『江赤見聞記』には8月までの同志は120人余と書かれている。

8月6日
 大石内蔵助は江戸下向を希望していた寺井玄渓に「思いとどまるよう」書状を送る。

8月10日
 堀部安兵衛・潮田又之丞は江戸に到着し、本所林町5丁目に居を定める。ここは吉良家の偵察及び同志の集会に使用する。

8月11日
 大石内蔵助は伏見の笹屋のお内儀に手紙を出す。

8月12日
 堀部安兵衛ら江戸の同志は観月の会と称して隅田川に船を浮かべて会議を行なう(船中会議)。大石内蔵助はこの費用に3歩2朱と銀5匁5分5厘を支給する。

 この会議には堀部安兵衛・堀部弥兵衛・潮田又之丞・奥田孫左衛門・吉田左衛門らが参加し、討ち入
り奉書に血判する。

8月13日
 浅野大学長広一行は、伏見へ着き、それより船にて大坂へ向う。

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