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シナリオ忠臣蔵

1702年 5月21日
江戸の動きを知った大石内蔵助堀部安兵衛に「来年の3月まで待つように」と手紙を送る。
1702年 6月18日
堀部安兵衛『堀部武庸筆記』柳沢吉保の儒学の先生である細井広沢に預けて上洛する。広沢から吉保に情報が伝えられたと思われる。幕府の浅野大学の処置によって、将軍家への信頼も回復できる可能性が出てきた。
1702年 6月29日
堀部安兵衛は京都・大坂で大高源五原惣右衛門らと「大石内蔵助と離れて討ち入る」という相談をする。
1702年 7月18日
幕府は浅野大学の処分を決定する。浅野家再興を認めず、大学は浅野本家に預けるという内容だった。
1702年 7月28日
浅野大学の処分が決まったことで、大石内蔵助は京都安養寺の塔中重阿弥で丸山会議を行い、討ち入りを決定する。江戸に帰ることにしていた堀部安兵衛もこの会議に間に合った。
内蔵助と離れての討ち入りは、単なる復讐として扱われ、現在に通用する忠臣蔵は誕生しなかったと思われる。
1702年 8月 5日
大石内蔵助は討ち入りに当たって神文誓書を返すことで同志を精選しました。堀部安兵衛らは単純に討ち入ることを考えていたが、大石内蔵助は討ち入るためには用意周到な準備が必要だと考えていたことが分かります。恐るべきは内蔵助の洞察力といえます。
1702年 8月12日
江戸では堀部安兵衛らが隅田川に船を浮かべ、その中で討ち入りについての確認をしました。
1702年 8月
討ち入りが確定すると、色々な口実を設けて脱盟者が相次ぎました。大野九郎兵衛の代理として家老となった奥野将監が脱盟しました。進藤源四郎大石内蔵助の親類)、大石孫四郎(内蔵助の親戚)らも入っていましたが、内蔵助は止めることもしていません。脱盟した者で、幕府に密告した者がいないのも稀有なことです。内蔵助の懐の深さを考えさせます。
1702年 9月 1日
幕府は下野烏山藩の永井伊賀守に対して赤穂への赴任を命じました。
10 1702年 9月24日
大石主税は父内蔵助に代わって同志を安心させるため江戸へ先発しました。
11 1702年10月 1日
大石内蔵助は豊岡の妻リクに離縁状を送りました。

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