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シナリオ忠臣蔵

1701年 5月12日
大石内蔵助は疲れが出たのか、尾崎村のおせどで病床に伏せる。
1701年 6月 1日
受城目付が将軍綱吉赤穂城収公の報告をしました。この時、大石内蔵助との約束を果たして、将軍に「浅野家再興」を進言したかどうかわ分かりません。
1701年 6月 4日
大石内蔵助瑞光院浅野内匠頭の墓代を寄進する。
1701年 6月中旬
大石内蔵助は妻リクと子供の主税らを先に大坂に向かわせる。
1701年 6月19日
堀部安兵衛大石内蔵助の言葉に一応納得しましたが、敵の吉良がいる江戸の異様な雰囲気に、安兵衛は「浅野大学を気にする者がいて恥ずかしい」と大石の考えを今では批判するようになる。
1701年 6月24日
堀部安兵衛らは泉岳寺に場参した後、江戸家老の安井を訪ね、率直に胸を裡を明かした。しかし、安井は「よく検討する」という言葉を使って、結局は裏切られてしまう。頼りにならない大石内蔵助を頼らざるを得ない安兵衛の人間性がよく出ていて面白い。
1701年 6月24日
大石内蔵助は浅野家の菩提寺である花岳寺に最後のお別れをして、生まれ育った赤穂を翌25日に伊和都比売神社そばの海岸より旅立っていきました。
1701年 7月10日
山科についた大石内蔵助は時の権力者柳沢吉保を通して、浅野家再興運動をしました。この時の内蔵助は本気で再興を願っていたようだ。ダメの時に起こりうることを想像するとじっと出来なかったと思われる。
1701年 8月14日
大石内蔵助瑞光院に墓参しました。ここには浅野内匠頭の毛髪が埋葬されています。この時、内蔵助はどのような言葉を交わしたのでしょうか。
10 1701年 8月19日
一応大石内蔵助に従うと決めた堀部安兵衛ではあるが、やはり江戸にいると、内蔵助の再興運動は生ぬるくうつり、大石の考えを「内匠頭の家来が大学を第一に考えるのは忠節ではない」と再び批判するようになっています。
11 1701年 9月 2日
江戸庶民の声を無視できなかったのか、幕府は吉良上野介呉服橋の土地を取り上げ、隅田川の外、つまり江戸の外郭である本所に移転することを命じました。庶民は「『これでは浅野の家来に討ち入りせよ』と言っているのと同じだ」と噂しあいました。
12 1701年 9月中旬
だんだん過激化する堀部安兵衛を心配して、大石内蔵助は年寄格の原惣右衛門を江戸に派遣しました。しかし、敵の吉良を目の前にして、又江戸の雰囲気に圧倒されて、熟年の惣右衛門までが安兵衛に逆に説得されてしまいました。
13 1701年 9月18日
そこで大石内蔵助はインテリで冷静な大高源五(30歳)を江戸に派遣しました。
14 1701年10月 8日
しかし大高源五までもが堀部安兵衛に説得されてしまいました。
15 1701年10月23日
江戸の持つ異様な雰囲気を恐れた大石内蔵助は自ら東下りを決意しました。
16 1701年11月10日
大石内蔵助と江戸の過激派が話し合いを持ちました。ともかく「吉良上野介浅野大学の処置の目途がつく1周忌まで待つ」という内蔵助の考えに落ち着きました。
17 1701年11月14日
江戸に着いた大石内蔵助はまず受城目付を訪ねました。目付は「何とかなりそうだ」と言って内蔵助を安心させています。目付は何を根拠にそういったのか分かりません。
18 1701年11月14日
大石内蔵助三次浅野家の江戸屋敷に引き取られている瑶泉院を訪ね、赤穂浅野家に嫁入りしたときの持参金について、浅野家のために使うことを申し入れ、その許しを得ました。浅野家のために使うという表現が内蔵助の計画を暗示しているようだ。
19 1701年11月
橋本平左衛門が大坂新地の花魁と心中しました。時期を待つ大石内蔵助の戦略は同志が次々と脱落するのを見ている者には我慢できないものになってきている。
20 1701年12月11日
幕府は吉良上野介の隠居と息子義周の吉良家相続を認めました。
21 1701年12月11日
堀部安兵衛は「幕府が吉良上野介の隠居、息子義周の吉良家相続を許可したことは、大石の主張する吉良処分がなくなったということ」と解釈して、11月の江戸会議は終了したと主張しました。それに対して大石内蔵助は「浅野家再興については結論がまだ出ていないのだから、11月の江戸会議はまだ有効だ」と考えていました。
22 1702年1701年12月25日
堀部安兵衛は「隠居した吉良上野介が息子の上杉家に引き取られるのではないか。そうなれば、あだ討ちできない」と考え、ますます焦りがつのりました。
23 1702年 1月11日
原惣右衛門大高源五らが大石内蔵助可笑庵に集会しました。
24 1702年 1月14日
萱野三平が義理と人情にはさまれて、自害しました。
25 1702年 1月22日
堀部安兵衛の同志高田郡兵衛が脱落しました。同志の脱落を体験した安兵衛は「大石と手を切り、一日も早く討ち入りたい」と覚悟を決めました。
26 1702年 1月25日
江戸の情報に接して、大石内蔵助は兵庫の加西から吉田忠左衛門を山科に招きました。
27 1702年 1月26日
堀部親子らは原惣右衛門大高源五らに「3月中に討ち入る」ことを打ち明けました。
28 1702年 2月15日
山科会議の結果、大石内蔵助の主張どおり「浅野大学の処置が出るまで待つ」「その結果により討ち入りもある」という結論になる。
29 1702年 2月21日
吉田忠左衛門が山科会議の結論を持って江戸へ出発する。
30 1702年 3月 4日
武林唯七大高源五から山科会議の結論を聞き、激怒して、絶交を申し渡す。
31 1702年 3月14日
大石内蔵助は赤穂に帰り、花岳寺浅野内匠頭の一周忌を行う。
32 1702年 4月 2日
山科会議で反論しなかった原惣右衛門が江戸に帰り、堀部安兵衛らと「大石内蔵助とは分かれて行動する」ことを決意する。
33 1702年 4月
大石内蔵助は15日に妻リク豊岡の実家へ帰巣。お軽を側女にする。
34 大石内蔵助山科から山越え伏見稲荷の大鳥居を通り撞木町に通う。
35 1702年 5月中旬
大石内蔵助はこの段階になっても浅野家再興運動をする。これが最後の再興運動になる。

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