| (1702年12月11日〜12月13日) |
| 元禄15年(1702) 12月11日 |
| 堀部弥兵衛は大石三平宛に書状(「去る5日相延び候に付、重而之会日相定まり候哉」)を書く(延びていた茶会は決まりましたか)。 毛利小平太が離脱する(最後の離脱者)。 大石内蔵助は毛利小平太の離脱により再度討入り部署を定める。 |
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| 12月12日 |
| 小野寺十内が妻丹に手紙を出す。 |
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| 12月13日 |
| 大石内蔵助は間瀬久太夫に、大石三平(無人の子)か羽倉斎に吉良情報を確認するよう指示する。羽倉は大石三平に「尚々彼方の儀は、14日の様にちらりと承り候」と知らせる。三平は間瀬に伝える。 大石内蔵助は大石無人(三平の父)に冨森助右衛門を通じて「昼過ぎ大石宅へ来るよう」連絡する。 小野寺十内が再び妻丹に手紙を出す。 |