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(1702年12月14日)
元禄15年(1702)
12月14日
 大石三平・大高源五から吉良茶会の情報が入る。15日早朝の討入りを決定する。

 大石内蔵助が瑶泉院に会いに行ったのもフィクションである。

 赤埴源蔵の徳利の別れもフィクションである。

 山岡覚兵衛の娘お浪が吉良左兵衛義周の妾になって情報を集めた話も、山岡という侍は赤穂藩にはいないのでフィクションである。

 萱野三平の未亡人(25歳)が吉良上野介の妾となり情報収集したという話も、自害している三平には妻もいない。フィクションです。

 討ち入り前に全員が泉岳寺に墓参し、そこで最後の謀議をする。これも『寺坂信行私記』や『白明記録』にもない。フィクションです。

 そば屋に勢ぞろいして討ち入りしたという話も、『寺坂信行私記』で「虚説」と書いている。
 
 昼時、吉良情報が大石三平により確認される。『寺坂信行自記』によると「極月14日之昼時、兼而申合い候大石三平より、上野介殿御事今日帰宅成られ候由聞付、早速告来候、然る処江大高源五も彼師匠方にて聞出し帰えられ候」とある。

 その後しばらくして、もう一つの吉良情報が大高源五により確認される。大石内蔵助の寺井玄渓宛の書状には「宗遍(旦)弟子之山田宗伯と申候仁小笠原佐渡守様に相勤、年七十余之由、此仁無二の心易ト市弟子功付(者)之由、此宗扁へ大高源五町人に作り弟子にいたし候今日をも自然と承候、先日(5日)これ在り候へ共、御成日故遠慮致し、今日(14日)会これ在るに付き明日打ち込み申す事に候」とある。高家大友近江義孝を招いての茶会の日が14日と決まったという情報である。

 大石内蔵助は、同志を本所の3ヵ所(本所林町5丁目堀部安兵衛宅、本所徳右衛門町1丁目杉野十平次宅、本所相生町2丁目の前原伊助宅)に集合させて武装することを命ずる。

 大石内蔵助・主税、原惣右衛門、吉田忠左衛門父子、小野寺十内らは午前0時ごろまで堀部弥兵衛宅で語り合う。

14日夜半
 大石内蔵助・大石主税・小野寺十内は堀部弥兵衛宅に行く。吉田忠左衛門・原惣右衛門・吉田沢右衛門らも弥兵衛宅に行く。吉田の一行は、そば屋の亀田屋へ行って時を過ごす。大石の一行は九つ時(午前0時)まで弥兵衛宅で飲みながら話し合う。

 弥兵衛宅には安兵衛の剣の先生堀内源左衛門・儒家細井広沢(柳沢吉保の儒臣)らも集まったという
説もある。フィクションである。

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