| (1702年12月15日午前0時〜午前6時) |
| 元禄15年(1702) 12月15日 |
| 九つ時(午前0時)の鐘を聞いて、堀部安兵衛宅・杉野十平次宅・前原伊助宅へ集まり、討入り装束を調える。 八つ時(午前2時30分)、堀部安兵衛宅・杉野十平次宅を発ち、前原伊助の店で全員合流する。ここから吉良邸までは約1kmの行程である。 山鹿流の陣太鼓を打ちならしながら討ち入ったという説もあるが、本来陣太鼓は敵との距離を味方の後方に知らせるものである。史料の「討ち入り心得」にも鉦の合図はあるが、太鼓の記述はない。 七つ時(午前4時)、吉良邸に討ち入る。口上書を打ち立てる。表門は大石内蔵助ら23人、裏門は大石主税ら24人である。しばらくして吉良左兵衛は使者粕屋平馬を老中稲葉丹後守正通の所に派遣し、事件をしらせる。 七つ半時(午前5時)、吉良邸向いの豆腐屋が上杉家上屋敷の東門に来て「八つ半討ち入り」と知らせる。 午前6時前、炭小屋にいた吉良上野介を討ち取る。吉良方は死者16人、負傷者21人の計37人を出したが、討入り方は負傷にとどまる。 引き上げ後か、吉良上野介の家臣・丸山清右衛門が上杉家に来て討ち入りを知らせる。 夜明け方、上杉家は40人を派遣するが、四十七人はどこにもいない。 卯の刻(午前6時)、吉良上野介の首を挙げて吉良邸を出る。回向院を借りようとしたが、住職はかかわり合いになるのを恐れて門を開かせず。船で引き上げようとしたが、異様な集団を見て、誰も船を貸さず。 普通のルートは両国橋から隅田川の西岸を進み泉岳寺へ進むが、15日は定例登城日なのでこのルートを避ける。現実に通ったルートは回向院から裏通りを通って隅田川東岸を南下して一ツ目河岸・御船蔵を通り、永代橋→霊岸島→稲荷橋→鉄砲洲→汐留橋→金杉橋→芝→泉岳寺へ行く。 泉岳寺に着いた一行は、亡君の墓前に上野介の首を供え、復讐を報告する。 永代橋の途中から、堀部安兵衛は深川八幡町の「細井広沢に知らせる」と引き返えす。 |