(1703年2月1日〜2月3日) |
元禄16年(1703) 2月1日 |
上野輪王寺公弁法親王が年賀のため登城して、将軍徳川綱吉に謁見する。 綱吉は法親王に四十六士の処分について質問する。綱吉は法親王から助命の言葉を期待した節もあるが、法親王は「臣の仇を報ぜしはさる事ながら、その志ははや成りぬ…。公より武士の道をたてて死をたまはらんには彼等が志も空しからず、公の刑法も正しく…」と言う。 その結果、「切腹は2月4日」と決定される。 細川越中守綱利が大石内蔵助らに面接する。 使番・堀内内記は、内蔵助ら17人と会う。 |
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2月2日 |
大石内蔵助は細井広沢(柳沢吉保の儒臣)に、討ち入りの始終を伝える書状を出す。 その内容は「旧冬は色々御厚志に預かり、お蔭をもって其の夜兼ねて存じ立て候通り同志相催し上野介殿屋敷へ打ち入り、手向かい候家来は切り捨て、本意の如く上野介殿を討ち取り、印は泉岳寺へ持参いたし亡君の顔前に備え、去年春以来の鬱憤を散じ大慶御察し貴丈にも御満足下さるべく候」というものである。 この御厚志については@口上の加筆の礼A江戸市中でも騒動を押さえるようとした幕府の通達が、無事泉岳寺への引き上げにつながったことへの礼であるという説もある。 |
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2月3日 |
幕府は四大名家に対して「2月4日、預かり人一同に切腹を命ずる」旨を伝達する。 |