| (1703年2月5日〜2月24日) |
| 元禄16年(1703) 2月5日 |
| 寅の刻(午前4時)、泉岳寺に45人の土壙が築かれる。 細川家は茶湯料として50両を泉岳寺へ追加布施する。 |
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| 2月6日 |
| 幕府は義士の遺児に対する処分を決定する。19人の内、15歳以上の4名を伊豆大島へ配流とする。15歳以下の者は親族に預け、成人になれば流罪とする。 |
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| 2月11日 |
| 吉良左兵衛義周は家老左右田孫兵衛・近習山吉新八を伴い、江戸から諏訪高島へ護送される。左兵衛の祖母(上野介の妻三姫)の願いにより、長持2棹・つづら1個・寝具を入れた長持1棹の計4個を持参することが許される。 |
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| 2月16日 |
| 吉良左兵衛義周が諏訪高島へ到着する。 江戸・中村座において『喧嘩曽我夜討』という題名の狂言を、赤穂浪士の討ち入りになぞらえて興行するが、3日間上演しただけで中止となる。 |
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| 2月18日 |
| 幕府の命令で、『喧嘩曽我夜討』が中止となる。 |
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| 2月24日 |
| 柘植六郎左衛門(吉田忠左衛門の妻おりんの弟)は、おさん(忠左衛門の娘で、伊藤十郎太夫治興の妻)と伝内(忠左衛門の次男)に書状を送り、「(寺坂)吉右衛門事12月27日にもどり候」と伝える。 |