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(1703年3月4日〜11月23日)
元禄16年(1703)
3月4日
 泉岳寺にて初忌日に僧165人が集まり、法要を営む。

3月7日
 浅野壱岐守長恒は、左兵衛長武の遠慮を許可し、上杉綱憲父子の遠慮も差し許す。

3月15日
 岡嶋八十右衛門の三男が赤穂にて誕生する。

3月22日
 四十六士の墓碑が泉岳寺に立つ。

3月28日
 吉良義周は、前年の12月14日に発症した傷がほとんど癒える。

4月16日
 吉良義周を高島城南丸に移す。番人が付き、月額・髭を剃るにも剃刀は禁止され、はさみで摘む。洗濯も許可が必要である。

4月28日
 四十六士の遺児のうち、15歳以上の吉田伝内(25歳。忠左衛門の次男)・間瀬定八(20歳。久太夫の次男)・中村忠三郎(15歳。勘助の長男)・村松政右衛門(23歳。喜兵衛の次男)の4名が、佃島から伊豆大島へ遠島となる。

4月29日
 流罪組の4人が大島に着く。漁師と共に網を引き、苫を編んで細々と暮らす。

6月18日
 小野寺丹(十内の妻)が京都日蓮宗本山本圀寺において食を断って自害する。自分の兄灰方藤兵衛が脱盟していたこと、夫小野寺十内・養子小野寺幸右衛門・幸右衛門の実兄大高源五・甥の岡野金右衛門・一族の中村勘助・間瀬久太夫と孫九郎父子を一度に失い、その苦しさと寂しさがあったとも考えられる。

9月28日
 処分を受けた遺児以外である千馬三郎兵衛の子・藤之丞(2歳)は、「親類書」の届けが遅れたので、祖父津川門兵衛に預けられる。

10月
 室鳩巣の『赤穂義人録』の初稿を終える(宝永7=1710年に完成)

11月23日
 元禄大震災が武蔵・相模・安房・上総を襲い、江戸は大火となる。

この年
 林信篤は「復讐論」を著す。

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