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エピソード

007_02

青銅器を共有する6集団から邪馬台国へ
 青銅器で有名なのが、銅鐸です。
  今から25年前の1981年、中国の四川省博物館へ行った時、銅鐸の原型を確認しました。大小20個の銅鐸が陳列してあり、大きい順に2列にぶら下げられていました。NHKの「のど自慢」に使われる鐘を想像すれば、理解しやすいでしょう。
 銅鐸の内側に舌を付けてあり、銅鐸を木槌で打つと、その舌がと銅鐸本体に触れて音を出す楽器として造られていたことが分ります。日本では、その使用をめぐって論争されていましたが、舌と一緒に銅鐸が発掘され、私の説が証明されました。
 日本では、銅鐸は入手が困難なため、貴重品化され、やがて、聞くための楽器から次第に祭器化していきました。
 やがて、貴重な青銅器が、地域的に偏在するようになりました。これは、富を持った人々が一定の範囲で誕生したことを示します。あるいは、1本持っていた人が、1本持っていたもう1人を支配し、2本を所有して、その富も2倍持ったことを意味します。
 こうして大きな権力者が誕生するようになりました。
 弥生時代後期、青銅器を分類すると、6集団の存在が分ります。
(1)北部九州・山口・愛暖・高知の東半分では、広形銅矛が祭祀として使用されています。
(2)播磨以東の近畿地方・香川・徳島の東半分では、近畿式銅鐸圏が祭祀として使用されています。
(3)瀬戸内の岡山・広島・燧灘を中心とする四国北部では、平形銅剣が祭祀として使用されています。
(4)出雲を中心とした中国山地の北側では、中細形銅剣が祭祀として使用されています。
(5)三河・遠江を中心として地域では、三遠式銅鐸群が祭祀として使用されています。
(6)関東から東北の太平洋岸の地域では、銅剣を異形化した有角石器が祭祀として使用されています。
 青銅器といえば銅鐸です。
 その次に思い出すのが三角縁神獣鏡という鏡です。『魏志』倭人伝には次のような記述があります。
 「絳地の交竜錦五匹・絳地の粟十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずるところの貢直に答ふ。とくに汝に紺地の句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹おのおの五十斤を賜ふ」。
 この銅鏡100枚は、魏帝が邪馬台国の女王である卑弥呼に贈ったと解釈されていました。
 1953年に京都府の椿井大塚山古墳から三角縁神獣鏡が出土しました。これに注目した小林行雄(当時京都大学の講師)は、「各地から三角物神獣鏡が発見されているのは、大和政権の全国統一の動きを示すものだ」と主張して、邪馬台国から大和政権への連続的な発展という邪馬台国畿内説を唱えました。
 1981年、王仲殊(中国科学院)は、「呉の工人が亡命先の倭で製作した」とする「日本列島製説」を提起しました。これは少なからず、日本の学界に衝撃を与えました。
 1997年、奈良県の黒塚古墳から三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、当時に近い状態で発見されました。この結果、小林行雄説が確認されたことになります。
 最近、福永伸哉(大阪大学教授)は、模倣のありうる図像文様ではなく、製作工人の流儀ともいえる鉦孔に注目して、「三角縁神獣鏡は邪馬台国、大和政権と中国王朝との正式交渉のなかでもたらされたとみるのがやはり妥当だろう」と推論しています(2006年9月9日付け朝日新聞)。
 私の大学時代、考古学では実績のある小林行雄氏が講師であることが不思議でした。
 そこで、年譜を調べてみました。兵庫県立第一中学校(今の神戸高校)時代に考古学を関心をもちました。しかし、建築家をめざして神戸高等工業学校(今の神戸大学工学部)に入学したものの、考古学への夢は断ち切れませんでした。その後、浜田耕作の推薦で京都帝国大学考古学教室の助手に抜擢されましたが、封建的な学閥により、講師の地位に押し込められていました。現在の年譜には京都大学名誉教授となっています。
青銅器の造り方
 縄文土器は、子供の頃、田を深く掘り起こした時、青い色の土が出てきました。粘り気があり、丸めてボールにして投げたり、縄上に練り上げ、専門的には輪積みにして器を作り、焚き火の中に入れて土器を作った経験があります。誰から教わることなく、本能的に、日常生活の知恵として、製作していたのです。
 竹を切った、刀身をつくり、柄や鞘も作り、チャンバラごっこをしたこともあります。
 竹で、鳥籠を作ったこともあります。
 しかし、出来なかったことがあります。青銅器作りです。材料の銅や錫・鉛はありましたが、その溶かし方が知らなかったのです。
 以下は、佐賀県教育委員会からのホームページを参照しました。
融解点 1000度は簡単に出せますが
1500度はかなり技術が必要
です。鉄器を所有する者が歴
史を支配する時代がきます。
1083 900 327 1530
(1)銅・錫・鉛を熱した炉にルツボ入れて、溶かします。
(2)箱の底(A)に青銅器の原型が埋め込み、その上に鋳物砂を箱に詰めます。弥生時代は鋳型は石で作られていました。これで上側の鋳型が出来ます。同じ方法で下側の鋳型を作ります。
(3)箱に詰めた鋳物砂を押し詰めます。
(4)箱をひっくり返して、箱の底(A)を上にして、底(A)板をはがすと、青銅器の鋳型が現れます。
(5)鋳型を整形します。
(6)上側の鋳型と下側の鋳型を合体させ、空洞から、溶解した銅・錫・鉛の合金を流し込みます。
(7)合金が冷却すると、上側の鋳型を外します。次に下側の鋳型を外します。
(8)取り出された青銅器を整形します。
 実験を行った佐賀県文化財課と九州産業大学九州産業高校の報告では、簡単に出来たとあります。
 色々な人に、青銅器の制作を聞きました。本格的な準備が必要なようです。腹をくくって、いずれ挑戦したいと思います。
 頭でっかちのペーパーテスト人間より、実験的・体験的人間がたくさん登場することを期待します。