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邪馬台国(卑弥呼とシャーマニズム) | |||||||||||||||||||||
1 | 邪馬台国、卑弥呼、誰もが知っている歴史用語です。3世紀頃の日本の歴史を調べました。残念ながら、この時代も日本の記録がないので、中国の史料を使います。 中国と朝鮮の情勢です。 220年、後漢が滅亡しました。 | ||||||||||||||||||||
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3 | 313年、公孫氏の帯方郡は、朝鮮の高句麗により滅亡しました。 | ||||||||||||||||||||
4 | 次は、中国史料に見る日本の情勢です。 239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、遣使の難升米を魏の皇帝のもとに派遣しました。当時は三国時代です。魏の国は華北にあり、朝鮮半島に一番近い国、つまり日本からも一番親しい国となります。 240年、魏の皇帝は、女王卑弥呼に親魏倭王の称号と金印紫綬・銅鏡を授与しました。中平(184〜189)銘の大刀、景初三年(239)銘の鏡、赤鳥七年(244の鏡が兵庫県から出土しています。 265年、魏の国が晋の国により滅ぼされました。 266年、卑弥呼の死後、男王が即死しましたが、倭国は大乱の状況となりました。そこで、卑弥呼の宗女である壹与が即位し、国中が安定しました。魏が滅んだので、晋に遣使しました。その後、中国の記録に日本が登場するのは、421年です。その150年間は重要の時期ですが、仕方がありません。 | ||||||||||||||||||||
5 | 晋の陳寿が書いた『魏志』倭人伝で当時の日本を再現します。 (1)邪馬台国の位置については、2説あります。日本の統一時期を決定する問題です。 @北九州説を採用すると、3世紀には九州北部を領域とする30ばかりの小国の統合体ということになり、統一時期は3世紀後半から4世紀初めということになります。 A畿内説を採用すると、統一時期は、3世紀にということになります。 (2)次は、政治・身分制度です。 @政治制度としては、伊都には大卒(検察官)、諸国には大倭(監督官)を設置し、租税を徴収していました。 A身分制度としては、王の下に大人、大人の下に下戸、その下に奴隷としての生口がありました。 (3)女王卑弥呼については、「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」と記録されています。 @鬼道とは呪術による支配(シャ−マニズム)のことで、これに従事する人を巫女といいます。巫女は未婚の女性が原則でした。今は、未婚の母もいたり、既婚の処女もいますから、未婚の処女という方が性格かもしれませんね。 A女王卑弥呼を補佐したのが男弟でした。 | ||||||||||||||||||||
卑弥呼(ヒのミコ)が呪術し、男弟(又は夫)が取り次ぐ。これがシャーマニズム | |||||||||||||||||||||
1 | 私の大学生時代の話である。調査旅行で東北地方へ行ったときに、地元の人からこんな話を聞きました。 | ||||||||||||||||||||
2 | 夫婦で畑仕事をしていました。妻が鍬をおっぽり出して、急いで家のほうへ飛んで帰りました。トイレに行ったにしては帰りが遅いので、夫が妻を呼びに帰りました。近所の人が大勢集まっているので何事かと見ると、屋根にまたがって妻が家を揺り動かしていました。近所の人はそれを見て、「神が乗り移った」と大騒ぎとなりました。 | ||||||||||||||||||||
3 | その後、妻は畑仕事や家事をせず、加持祈祷をして近所の人の相談や遠くから来た人の相談にのるようになりました。妻と客とは直接話をせず、夫がもっぱら取り次ぎました。こうしたことをシャーマニズムといいます。 | ||||||||||||||||||||
4 | 神社の原初的な形は神がかりした女性を巫女(ミコ)といいます。ミコと客との間を取り持つのが神主です。卑弥呼も実はヒのミコで、男弟がいて、これを助けたといいます。今は神主がパートで女子大生をミコに採用する逆転した形になっています。 | ||||||||||||||||||||
5 | やがてこの男弟がミコを利用して権力を有する時代になっていきます。 |