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エピソード

011_02

大和王権の伸張(倭の五王、讃・珍・済・興・武)
 5世紀頃になると、日本でも『古事記』や『日本書紀』が誕生し、中国の記録を参照しながら、日本の歴史を記述できるようになりました。
 413年、東晋安帝の時、倭国方物を献ず(『晋書倭条』)。
 413年、安帝の時、倭王「賛」あり(『梁書諸夷伝』)。
 梁時代の沈約が書いた『宋書』倭国伝の記録です。
 421年、日本の@讃が遠い所から朝貢してきたので、新しい官職をあたえよう(「倭の讃、万里貢を修む。除授を賜ふべし」)。
 425年、日本の讃が死んで、弟のA珍が即位しました(「讃死して、弟珍立つ」)。
 443年、日本の国王であるB済は、使者を派遣して朝貢してきました(「倭国王済、使を遣して奉献す」)。
 梁時代の沈約が書いた『宋書』倭国伝の記録です。
 462年、済が死に、継嗣のC興は、使者を派遣して朝貢してきました(「済死す。世子興、使を遣して奉献す」)。
 478年、興が死んで、弟のD武が即位し、使者を派遣して上表してきました。そこには、「昔より先祖が甲冑を身にまとい、毛人の国55国、衆夷の国66国、海北の国99国を平定して国家を統一しました。…そこで武を安東大将軍倭王に任命しました」
 以下が原文です。
 「興死して弟武立ち、使を遣して表を上りて日く…昔より祖禰、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉して、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国を渡りて海北を平ぐること九十九国…詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す」
 479年、南斉高帝の時、倭王「武」は鎮東大将軍に任ぜられました(『南斉書東南夷伝倭国条』)。
 唐時代の姚思廉が書いた『梁書』の記録です。
 502年、梁の皇帝である高祖は、武の前職を解任し、征東大将軍の号に進めました(「齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位、進武號征東大將軍」)。
応神 仁徳 履中
反正
允恭 安康
雄略
@讃は応神・仁徳・履中?
A珍は仁徳・反正?
B済は允恭
C興は安康
D武は雄略
『宋書』 『梁書』 『古事記』・『日本書紀』
研究・学問の大切さ、面白さを知る
 大学時代、「口で仕事をするな、目でせよ」と教授からよく言われたものである。弁の立つ者はつい仕事をおろそかにしても、ごまかす術を身につけている。重箱の隅をつつくというのが当時の学問への評価であった。私の大学の先輩も日本にある史料では邪馬台国の位置を特定できないと、とうとう中国にまで行ってしまいました。
 それぞれの分野でこつこつ専門的に行われた研究・学問の成果、それらが統合されて今まで不明とされている歴史がつながるのです。改めて学問の大切さを知らされました。
 高校時代、日本史の先生から図版で熊本県の江田船山古墳で発見された太刀を見せられました。そこには「獲□□□歯大王」と書いてありました。先生「□□□がわかれば、この大王が誰であるか分かる」と夢のような話を、熱く話してくれました。
 後に、埼玉県の稲荷山古墳で発見された鉄剣をX線撮影したところ「獲加多支歯大王」という文字が浮び出たということを新聞で知りました。「□□□」に入る文字は「加多支」ということが報じられました。読み方は「ワカタケル」の大王(オオキミ)となります。
 そうなると学問の世界です。ワカタケルと呼ばれた大王(王の中の王=天皇)は大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)でありました。そこまで分かると、ワカタケル大王は雄略天皇であり、倭の五王の一人の倭王武のことであることまで分かりました。
 『宋書』倭国伝のいう武の兄である興、武の父である済の人間関係が分かるようになりました。『古事記』『日本書紀』では武(雄略天皇)の兄は安康天皇、武(雄略天皇)の父は允恭天皇ということになります。
珍立つ、中世で笑われる