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エピソード

017_02

大王家の危機U(武烈天皇から継体天皇へ)
 以前から、継体天皇には興味を持っていました。
 2007年3月1日、大阪市教育委員会は、『「真の継体天皇陵」とされる大阪府高槻市の前方後円墳・今城塚古墳(6世紀前半、全長約190メートル)で、横穴式石室の基盤とみられる大規模な石組み遺構が見つかったと、発表しました。石室は失われていたが、古墳は完成時に3段、高さは18メートル前後だったと推定される。これだけの規模は大王(天皇)墓以外に考えられず、同古墳が継体天皇墓であることがより確実になったとしている』(2007年3月2日付け朝日新聞)。
 2007年11月21日、NHKは『その時歴史が動いた』という番組で「継体天皇 ヤマトを救う」を放映しました。
 それ以前も、歴史的事実を無視して、「万世一系の男系天皇が2600年も日本を統治してきたのが、世界にはない日本の伝統である。その伝統を守るのが我々の務めだ」という議論を聞いていました。
 歴史は歴史、ロマンはロマンとして、はっきり線引きして考え、その考えを後世に伝えるのも「我々の努め」だと考えました。
 次の表は、『日本書紀』に基づいて作成しました初代から26代継体天皇までの誕生年と父が何歳の時に生まれた子であるか、そして亡くなった年、享年をまとめました。は享年100歳以上です。
 当時の平均年齢から見ても、70代・80代は以上ですが、今でも健在な方はいますので、100歳以上を列記しました。21代の雄略天皇までで半数以上の12人が100歳以上です(『日本書紀』)。
 男性の史上最高齢は、鹿児島県徳之島の泉重千代さんです。泉さんは、慶応元(1865)年6月29日に生まれ、昭和61(1986)年2月21日に亡くなりました。時に120歳と237日でした。
 女性の史上最高齢は、フランスのジャンヌ・ルイーズ・カルマンさんで、1875年2月21日に生まれ、1997年8月4日に亡くなりました。時に122歳と164日でした。
 その史上最高齢を上回る天皇が6人です(『日本書紀』)。
天皇名 誕生年 父が何歳の
時の子か
没年 享年 古事記の享年
神武天皇 鵜葺草葺不合命 前711 前585 127歳
綏靖天皇 神武天皇 前632 79歳 前549 84歳  
安寧天皇 綏靖天皇 前577 55歳 前511 67歳  
懿徳天皇 安寧天皇 前553 24歳 前477 77歳  
孝昭天皇 懿徳天皇 前506 47歳 前393 114歳 93歳
孝安天皇 孝昭天皇 前427 79歳 前291 137歳 123歳
孝霊天皇 孝安天皇 前342 85歳 前215 128歳 106歳
孝元天皇 孝霊天皇 前273 69歳 前158 116歳
開化天皇 孝元天皇 前208 65歳 前98 111歳
10 崇神天皇 開化天皇 前148 60歳 前30 119歳 168歳
11 垂仁天皇 崇神天皇 前69 79歳 70 139歳
12 景行天皇 垂仁天皇 前13 56歳 130 143歳
13 成務天皇 景行天皇 84 29歳 190 107歳
14 仲哀天皇 日本武尊 200 52歳  
15 応神天皇 仲哀天皇 200 310 111歳 130歳
16 仁徳天皇 応神天皇 257 57歳 399 143歳 83歳
17 履中天皇 仁徳天皇 405 64歳  
18 反正天皇 仁徳天皇 410 60歳
19 允恭天皇 仁徳天皇 453 78歳
20 安康天皇 允恭天皇 401 456 56歳 56歳
21 雄略天皇 允恭天皇 418 479 62歳 124歳
22 清寧天皇 雄略天皇 444 26歳 484 41歳  
23 顕宗天皇 磐坂市辺押磐皇子 450 487 38歳  
24 仁賢天皇 磐坂市辺押磐皇子 449 498 50歳  
25 武烈天皇 仁賢天皇 489 40歳 506 58歳  
26 継体天皇 応神天皇の5世の孫 450 531 82歳  
 下の2つの系図をご覧下さい。
 系図()では、史料から確定できる天皇は允恭とその子安康・雄略です。それ以前は、比定出来ません。それを敢えて、紀元前660年に神武天皇の即位をもってきたため、不自然な享年を捏造したことが分ります。
 566(武烈8)年12月8日、武烈天皇は、一族を酷刑で処罰したので、継嗣をなくし、亡くなりました。時に58歳でした
 507(継体元)年2月4日、応神天皇の末裔である男大迹彦太尊が河内国樟葉宮(大阪府枚方市)で即位しました。これが(継体天皇です。時に58歳でした。
 526(継体20)年9月、継体天皇は、即位して20年後にして、大和国磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都しました。時に77歳でした。
 531(継体25)年2月7日、継体天皇が亡くなりました。時に82歳でした。
 系図()では、継体天皇は、応神天皇の5世の孫であるということが分ります。
 即位して20年後に大和に入ったという点、応神天皇の5世の孫という点が気になります。
応神 仁徳 履中
反正
允恭 安康
雄略
@讃は応神・
仁徳・履中?
A珍は仁徳・
反正?
B済は允恭
C興は安康
D武は雄略
『宋書』 『梁書』 『古事記』・『日本書紀』

応神 仁徳 履中 皇子 皇女
反正 仁賢
顕宗 ‖━ 武烈
允恭 安康 皇女
‖━ 雄略 皇女
清寧 ‖━ 欽明
二俣王
‖━ 彦主人王 継体
比売 ‖━ 安閑
宣化
 『記紀』(『古事記』・『日本書紀』のこと)によると、継体天皇は、近江国高嶋郡三尾(現在の滋賀県高島市)で生まれましたが、父の彦主人王が亡くなったので、母の越前国三国(現在の福井県坂井市)に移り住みました。
 武烈天皇が継嗣なく亡くなったので、大連の大伴金村らは、越前国三国にやって来て男大迹王に即位を懇願しました。
(1)武烈天皇が一族を根絶やしにしたからといって、応神天皇の5世の孫以外に皇族はいなかったのでしょうか。しかも年齢が58歳という高齢です。これが第一の疑問です。
(2)大和にいなくても、大和と近縁の河内や近江に皇族はいなかったのでしょうか。これが第二の疑問です。
 男大迹王は、翌年、河内国樟葉宮で即位して、継体天皇となりました。ここで、武烈天皇の妹である手白香皇女を皇后に迎えました。それから20年後にして、大和国磐余玉穂宮に遷都しました。
(3)何故、5世の孫にしろ、正当な皇位継承者なら、直接大和に入らず、河内に入ったのでしょうか。これが第三の疑問です。
(4)20年後に、大和に遷都出来たのはどうしてでしょうか。これが第四の疑問です。
 531年2月7日、継体天皇は、皇子の勾大兄に譲位しました。安閑天皇です。64歳でした。同じ日に継体天皇や皇子が亡くなっています。
 この年、安閑・宣化天皇の異母弟である天国排開広庭尊が即位して、欽明天皇となったという説があります。この立場に立つと、大和朝廷二朝並立時代が存在したことになります。
 535年12月17日、安閑天皇も亡くなりました。時に70歳でした。安閑天皇の弟である檜隈高田皇子が即して、宣化天皇となりました。時に69歳でした。
 539年2月10日、宣化天皇が亡くなりました。時に73歳でした。
 12月5日、安閑・宣化天皇の異母弟である天国排開広庭尊が即位して、欽明天皇となったという説があります。この立場に立つと、大和朝廷は二朝並立時代は存在しなかったことになります。
 571年4月15日、欽明天皇が亡くなりました。時に63歳でした。
 NHKの「その時歴史が動いた」は、次の様に説明しています。
 朝鮮半島では、高句麗が南下したので、大和朝廷と友好関係にあった百済が漢代から夫余に南遷しました。中国と友好関係にあった新羅が百済を圧迫しました。
 百済は、かねてより、日本海を通じて、越前の王(男大迹彦太尊)と友好関係を結んでいました。そこで、百済は、日本の王となった継体天皇に救援を依頼しました。
 そこで、継体天皇は、大連の大友金村らを朝鮮半島に派遣しました。他方、新羅から援軍を頼まれた筑紫国造磐井は、大和朝廷軍を遮ると行動に出ました。継体天皇は、大連の物部麁鹿火を派遣して、この反乱を鎮圧しました。
 その後、継体天皇は、筑紫の地に「糟屋屯倉」を置いて地方支配の拠点とし、その後次々に各地に屯倉を置いていきました。
 継体天皇にスポットをあてた番組だっただけに、とても新鮮でした。歴史研究の進歩を感じました。
男系の万世一系が日本の伝統?
 最近(2007年11月28日)、「突然辞職雛」と揶揄されるように、安倍晋三内閣が突如瓦解して、福田赳夫内閣が誕生して以来、保守派と言われていた人々のTV出演が減ってきています。
 しかし象徴天皇制を憲法でうたっている日本では、127代目の天皇について結論が出ていません。
 現行の『皇室典範』では、「第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」となっており、皇太子と雅子妃の間に誕生した愛子内親王には天皇への道が閉ざされています。次男の秋篠宮と紀子妃の間に誕生した第三子で男子の悠仁親王が即位することになります。
 小泉首相の時、女系天皇の容認を巡る論議が活発になりました。しかし、天皇家に男子が誕生したことで、時間をかけて議論するということになりました。私も賛成です。
 その後、議論がなされたという話は聞きません。今のままでは、どなたが帝王学を学ばれるのか、日本国民にとっては、看過できません。
 議論が活発に行われていたときは、保守派の論客がTV番組で盛んに発言していました。
 印象に残っているのは、自民党の西川京子衆院議員です。彼女は、日頃から、戦前の教育を「道徳観や社会通念をはぐくむという面では現在より圧倒的に優れていた」などと主張しています。その彼女は、日本の皇室議論でも、「2000年以上続いた男系で万世一系が日本の伝統だ」と主張しています。
 茶髪の弁護士は、歴史の造詣もないのに、過激で明解な発言をして、人気があります。歴史上、このような人物が破滅に国民を誘導してきた事実も無視できません。彼は「2000年以上続いた男系で万世一系が日本の伝統だ」と同じ趣旨の発言を繰り返し行ってきました。「男系が維持できたのは、側妾制度があったからだ」と反論されると、「側妾制度を復活させればいい」と明解です。
 何度も言えば、真理となってしまいます。こういう人がマス=コミにちゃやほやされる現状には、「本当に困ったものです」
 まず、ロマンと歴史を区別する必要があります。
 初代神武天皇の父は鵜葺草葺不合命といいます。
 山幸彦(火遠理命)は釣針を探しに海神の宮へ行き、海神の娘豊玉毘売命と結婚します。釣針を見つけて帰った山幸彦(火遠理命)は、兄の海幸彦(火照命)をやっつけけます。
 豊玉毘売命は海宮で懐妊します。しかし、天神の子を海の中で産めないので、夫を追って、陸に上がってきました。浜辺に産屋を作ろうとしましたが、豊玉毘売命が産気づきました。そこで、「私の国では産む時は生まれた世界の姿になります。絶対に”妾(あ)をな見たまひそ”」と山幸彦(火遠理命)に言いました。言うことが妙なので、山幸彦(火遠理命)は産もうとしているところをのぞき見すると、”八尋和邇(大きな長い鮫)に化(な)りて”うねりくねっていました。
 茅草がわりの鵜の羽を葺き終らないうちに産まれたので、その子の名を「鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命」と名づけました。
 恥ずかしい姿を見られたので、豊玉毘売命は海神の宮に帰っていきました。産まれた子は豊玉毘売命の妹玉依毘売が育てました。後に成人した鵜葺草葺不合命と玉依毘売が結婚して、産まれた子が神倭伊波禮毘古命といいます。神倭伊波禮毘古命こそ、皇祖の神武天皇なのです。
 山幸彦と和邇(読みはワニですが、当時はサメ)の豊玉毘売命との間に生まれた子が鵜葺草葺不合命です。その鵜葺草葺不合命と和邇の妹玉依毘売との間に生まれた子が神武天皇です。
 神話には、異類の者との間に生まれた子の子孫が民族や王朝の先祖とされていることがあります。神武天皇は神話、ロマンの話です。
 日本で、歴史上の人物として天皇が登場するのは、何時ごろでしょうか。
 日本で文字が使用された最初は、卑弥呼の239年とされます。卑弥呼の邪馬台国が大和にあれば、その頃、日本は全国を統一していたことになり、その支配者としての天皇の存在が裏付けられます。吉野ケ里を邪馬台国とすると、日本の統一はそれ以降となります。
 372年、百済の肖古王が倭王に七枝刀を献上したという記録が石上神宮にあります。
 478年、倭王武(雄略天皇)は、「自分の祖先が甲冑に身をまとい、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国を渡りて海北を平ぐること九十九国」と全国統一を宣言しています。
 もし、卑弥呼が天皇の先祖であるとするならば、最初の天皇の存在は3世紀中期以降となります。『古事記』『日本書紀』でいう仁徳天皇・履中天皇の頃です。倭の五王の時代です。履中天皇以降享年も現実的な数字となります。天皇の歴史は1700年といえます。世界に恥じない立派な歴史です。
 次に、男系の万世一系の歴史観です。
 武烈天皇で万世一系は途絶え、継体天皇が迎えられたという説があります。
 私は、応神天皇の5世の孫であっても、全くカリスマ性がなければ、多くの人を納得させることが出来なかったと思います。そういう点では、継体天皇は余人には代えがたい人物だったと思います。
 逆に、男系の万世一系を強調するために、以下のような天皇の並立を否定する説もあります。
(1)仏教の伝来を『日本書紀』は552年(欽明天皇13年)としています。しかし『上宮聖徳法王帝説』では「志癸島天皇御世戊午年十月十二日」としており、『元興寺伽藍縁起』も「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」としています。
 しかし、戊午年の538年は、『日本書紀』の欽明天皇治世(540年〜571年)には存在しません。そこで、欽明天皇は安閑天皇と同年の531年に即位したという説が主張されるようになりました。
*平子鐸嶺氏は、父の継体天皇の没年を『古事記』の527年(丁未年4月9日)とし、その後2年づつ安閑天皇・宣化天皇が在位して、『日本書紀』での継体天王の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年に欽明天皇が即位したと主張しました。
*喜田貞吉氏は、欽明天皇の即位年は531年とし、欽明天皇の即位を認めなかった物部氏らが3年後の534年に安閑天皇を擁立したと主張しました。さらに、安閑天皇は1年で亡くなると、物部氏らは宣化天皇を擁立し、欽明朝と安閑・宣化朝の二朝が並立する状態が現出した。しかし、宣化天皇が亡くなり、物部氏の権力が失われて二朝並立は解決したたと主張しました。
*その外、林屋辰三郎氏・水野祐氏・白崎昭一郎氏らも二朝並立を主張しました。
(2)ここの宮内庁の(天皇陵ホームページ←ここをクリック)があります。
初代の神武天皇から124代昭和天皇の御陵が写真・地図入りで、簡潔に紹介されています。
 しかし、125代今上天皇の先祖である北朝の御陵の紹介はありません。つまり下の系図の@Dの部分です。
 江戸時代末期、『大日本史』は南朝正閏論の立場をとっていますが、官立の歴史学者である成島司直は、『南山史』で大日本史を批判して、二朝並立を主張しています。国学者の鹿持雅澄も『日本外史評』で二朝並立を主張しています。
 明治になって、南北朝正閏論争が激化しました。
 1911(明治44)年1月19日付けの読売新聞は、「国定教科書の『尋常小学日本歴史』が南北両朝を並立させて正邪・順逆を誤らしめている」という記事を掲載しています。
 それを聞いた大阪出身の藤沢元造が質問することになりました。桂太郎首相は、事の重大さに驚き、色々圧力をかけて、藤沢元造の質問を撤回させました。しかし、藤沢元造が辞職したことで世論が紛糾し、南北朝正閏論争が噴出しました。
  そこで、桂太郎内閣は、上奏して、明治天皇の勅裁を得ました。その結果、「南朝を正統と定め、北朝の天皇を歴代表に記載しないこと」に決定しました。これから以降、北朝の天皇が抹殺されるようになったのです。
 私の周囲でも、結婚後、何年も経っているのに、子供のない夫婦がかなりいます。医者に聞くと、「統計的には10組に1組は子供が生まれない夫婦がいる」ということでした。約10%です。
 そこで、男系の万世一系を維持するには、どうしてきたのでしょうか。平安時代の史料では、天皇には正式に娶ることができる女性が10人とありました。明治天皇には皇后の一条美子以外、葉室光子・橋本夏子・柳原愛子・千種任子・園祥子の配偶者がいました。後白河天皇には、皇后の藤原忻子・皇太后の平滋子・贈皇太后の藤原懿子・女御の藤原j子以外に、藤原成子・高階栄子・藤原氏・源氏・大江氏・平氏などの配偶者がいました。後醍醐天皇には、皇后の西園寺禧子・皇后のc子内親王・皇太后の阿野廉子・女御の藤原英子以外に、藤原親子・菅原氏・藤原為子・藤原実子・藤原守子・王氏・藤原氏・藤原氏・藤原氏・藤原氏・源親子・源氏・近衛局・左衛門督局・権中納言局・坊門局などの配偶者がいました。
 戦前は、妻以外に妾を囲うのが男の甲斐性と言われた時代です。現在、一夫一婦制の時代です。一夫多妻を男系の万世一系を維持するという名分があっても、庶民は納得するでしょうか。現に、昭和天皇は「新憲法の精神を尊重する」として、一夫多妻制を否定されたと言います。
10  歴史を冷静に見つめ、多くの人が支持する象徴天皇制を将来にもわたって維持するには、イギリスなどの制度も参考に、現実的な案を考えたいものです。
源 義家 足利貞氏 @足利尊氏 A足利義詮 B足利義満
日野西資子
@光厳天皇 B崇光天皇 三条厳子 ‖━ F実仁親王(称光)
‖━ C彌仁親王(後光厳) ‖━ E幹仁親王(後小松)
後伏見 三条秀子 ‖━ D緒仁親王(後円融)
‖━ A光明天皇 紀仲子
西園寺寧子
@後醍醐 A後村上天皇
‖━ B寛成親王(長慶)
藤原氏 C煕成親王(後亀山) D実仁親王(小倉宮)
懐良親王